次に待ちかまえているお仕事二つのうちの一つ用。同じ著者の新しい本も出てるけど、とりあえず合間合間に読めそうなこれから。まず、素朴にいろんな運動が紹介されていること自体が面白かった。で、
なぜ文化なのか?以前ここで言及した本にからめて「新しい社会運動」って何だったんだろうみたいなことを書いたけれど(もっとも、「新しい社会運動」なんかあったのかという話もあったりするわけだが)*1、この本で「文化」が持ち出されてくるポイントはまさにそこにある。
私が「社会運動」の代わりに「文化=政治運動」という言葉を用いようとするのは、まさに旧来の「社会運動」がこの「社会的なもの」にじわじさと侵食されつつあるように感じるからである(26頁)。
つまり、「社会運動」が体制の補完装置と化してアルタティブを提示できなくなったところで呼び出されてくるのが文化だ。どういうわけで?というのも、文化は享楽をもたらす。そして、享楽の行き着く先は不透明だ。そこに文化と政治が結びつく可能性が生まれる。
つまり、文化とは究極的に「反社会的」な側面をもっているのだ。そしてその反社会的な性質が、逆説的に人びとに特異な政治的ヴィジョンを与えるのである。文化が政治と結びつくのは、文化がアレントのいう「社会的なもの」を拒絶する、その瞬間においてなのだ(26頁)。
ここでは政治的理念と運動の関係が逆転している。運動は政治的な理念を実現する以上に、享楽をもたらす装置なのであって、政治はこの運動をさらに駆動する契機として導入されるのである。
人びとはカーニバルになによりも享楽を期待するのであって、その享楽を守るために政治が導入されたのだった(33頁)。
そして、これは運動をその担い手たる個人の元に取り戻すということでもある。というのも、政治的理念は運動の担い手とは離れたどこかにある。だが、享楽は運動の主体に内在している。そして、この享楽する主体は、政治的理念と親和的な下層階級にではなく、そこそこ豊かで理念から切り離されがちな中流階級にこそ見いだされるのだ。中流階級のラディカリズム、いわゆる「プチブル急進主義」である。
むしろ、重要なのはフリーター層の中でも経済的にも文化的にも比較的恵まれた人びとがこうした新しい文化=政治運動を担っているという積極的な認識である(186頁)。
そこで、毛利は運動の支援者と被支援者の関係を逆転してみせる。いったい支援されているのはどっちなのだろうか?たとえば、メキシコのサパティスタ運動はこんな風に捉え返されることになる。
支援されているのはチアパスの人びとではなく、実はむしろチアパスの人びとと同じように「もうたくさんだ」と感じている先進国の若者の方なのである。サパティスタが、彼らの最大の支援者なのだ。サパティスタ運動のあり方、そのメディア戦略、そして文化的戦略によって、90年代の文化=政治運動が大きな影響を受けた事実の方に目を向けるべきではないのか(136頁)。
そして、この影響とは何よりも享楽を享受する可能性であったはずだ。
また、享楽を中心とするその運動は、革命のような時間意識を欠いており、無時間的、現在中心主義的である。文化を介して導入される政治が空間の占拠をめぐる政治であるのもそれゆえのことである。
こういった批判が向けられるのは、この文化=政治運動が徹底的に空間にこだわっており、それゆえに「現在」という時制に執着していることに起因している。そして、この空間へのこだわりが、まさに、伝統的な左翼運動や社会運動に対する批判にもなっているのだ(167頁)。
こうした左翼の伝統的な批判理論に対して、空間的な思考がイメージするのは、一種の「陣地戦」である(168頁)。
というわけで、何が問題なのかがよく分かる話だった。もっとも、この本では、1999年のシアトル以降、ポスト新しい社会運動という括りで話が進んでいくのだが、でも、考えてみれば、これって、ブント以後、あるいは1968年以降の問題設定だとも言えるわけだよね。つまり、六全協やスターリン批判で革命という目的論的な時間意識がぶっとび、サブカルと親和的な学生が運動の主体となり、バリストや刹那的な闘争にかける、と。このあたりの連続性、あるいは非連続性はどう考えればいいんだろう?
また、この本を読んでいちばんこころひかれたのは、第3章でダグラス・クリンプの議論が紹介されている部分だった*2。
哀悼によってもたらされるのは、無意識下にある認識できない「死の欲望」の両義性をその自己破壊的な痛みとともに知覚することである。そして、自らの中にある暴力的な衝動、死の欲望を直視し、それを外部に吐き出すことなく内部にとどめることが要求されるのだ(80頁)。
「死者ともエロティックな関係」を築き、「死者と共闘」することは、自分自身を生き延び未来を考えることと同じくらい重要なことなのである(87頁)。
だが、ここで問題にされる「哀悼と闘争」の関係は、歴史を再導入することになるように思える。それはこの本の他の部分の議論とどう切り結ぶのだろう?それがよく分からなかった。まあ、他の本も読んでみるべきかな。
- 作者: 毛利嘉孝
- 出版社/メーカー: 月曜社
- 発売日: 2003/12/11
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*1:http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20070919/p1、http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20071004/p1
*2:たとえば、水俣病闘争にかかわり、いまだにくすぶる「水俣病」の病名変更運動に反対し、あるいは「水俣病」問題が環境ホルモンの一つに切り下げられてしまうことに違和感を覚える人たちは、まさにそのような哀悼を生きる人たちだろうと思うのだ。