きょうから、ぼくは学校を、やめます。みんなとは、きょうからあかの、たにんです。にらむなら、かってににらんで、ください。でも、きょうからぼくは、ふつうの人です。

 またもやシンポのお勉強で貴戸理恵不登校は終わらない』を読了*1。上記は貴戸本からの孫引き*2
 不登校が大きな問題になっていった頃はボクもまだ生徒だった頃で、たしかに周囲にも次第に学校に来なくなる生徒がいた。そして、その頃から現在までボクの不登校に対する認識はあまり変わっていなかったのだが、遅まきながら本書を読んでそうした認識を改めることになった。こっちがだんだんと年をくっているのだから、当時の不登校者も大人になっているわけで、世代の入れかわりがあるし、不登校の認知度も変わる。とすれば、その問題状況も違ってくるはずなのだ。
 たとえば、文部省・文科省は「不登校問題」にたいする方針をこんな風に変えている。1.1980年代以前の不登校者を「病者・逸脱者」として治療・矯正の対象としていた時期、2.1992年以降、不登校は「誰にでも起こりうる」ものとして事実上は放任した時期、3.2002年以降、それを行き過ぎとして自立や学校復帰の試みの必要を指摘する時期、という流れがそれである。
 他方、本書によれば、むしろ変わらなかったのは、ここでは〈「居場所」関係者〉と括られるフリースクール、フリースペースの担い手たちになるようだ。〈「居場所」関係者〉は、不登校を「ひとつの選択」として肯定しようとしてきた。だが、貴戸は、「「行けない」から「行かない」へという「選択」の物語は、マイナスの価値を帯びさせられてきた不登校や「居場所」を「肯定」する回路を開いた一方で、不登校・「居場所」を常に「選択」に値する「すばらしいもの」として提示しつづけなければならないという「自己負担」を関係者に強いることになった」(59頁)、「〈当時者〉に対して構造的劣位を主体的に「選択」させるという問題がある」(265頁)という。
 たしかに、不登校になった子どもたちは、ある意味で不登校を挫折として経験してきており、そうした彼ら・彼女らをありのままに受け入れて肯定してやる場所が必要だということは疑いない。だが、こうした「ありのまま」を肯定し続けるのはどこか無理があるように思う。
 だって、不登校を経由しなかった子どもたちにしても「主体的」に選んで学校へ行ったわけではないだろうし、「ありのまま」ということでいえば、学校に通うことのできた生徒たちの大半にとっても、学校はありのままの自分を受け入れてくれる場所ではなかったに違いない。それは社会に出てからだって同様だ。おそらく、彼ら・彼女らもなんらかの居心地に悪さを抱えて生きている。われわれの大半が、多かれ少なかれ、社会と折れ合って生きて行かざるをえないことを所与とすれば、過剰に「ありのまま」にこだわること、あるいはこだわされてしまうことは、結局、個人に回り回って次のステップをそれだけ難しくする可能性が高そうだ。
 もちろん、そうせざるをえない状況というのはある。じゃあ学校へ行かないというのは「選択」というほど大げさなことだったのだろうか?たしかに、その後の子どもの将来の少なからずが学歴に規定される可能性が高いことを考えれば、親や周囲にとって大きな問題であることは間違いない。しかし、本人にとってどうかと言えば、必ずしもそうとはいえまい。とりわけ、子どもが小さければなおのことだ(そういえる場合がないと言うつもりはないが*3)。すべからく不登校経験をその子の「主体的な選択」として扱うことはどうみても無理がありそうだ。そんなわけだから「本人の意識と周りが読み込む不登校の「理由」や「きっかけ」とのあいだに乖離がある」(248頁)。
 といって、現在苦しんでいる子どもに長期的な観点にたって事態を考えろというのも酷な話。子どもを病気扱いしたくなければ、それを子どもの主体的選択として受け取ってやるというのが残された苦渋の判断だったとしてもおかしくない。実際、本書で確認される不登校経験者の親の判断はそんな感じで揺れている。だが、教育がそもそも子どもを社会へ架橋していく機能を担っている以上、長期的観点を抑圧しがちなフリースクール運動は、この点で困難を抱え込んでしまいがちなところがあるだろうし、その困難の落としどころは誰よりも不登校経験者に行き着く。
 というのも、「不登校」というカテゴリーは多かれ少なかれ、社会に出てからもついてまわる。よかれあしかれ現行の社会は学歴社会であり、若者を社会の成員として受け入れ評価するための条件として、多くの場合、学歴が持ち出されてくる。また、大半の人は、評価の是非はともかく、学校体験をきわめてノーマルなものとして経てきているので、お互いの学校体験を所与のものとして想定しがちである。だから、日常的な会話のなかで、社会の成員の共通のトピックとして、学校体験の話題が持ち出されてくることにもなる。「不登校経験を持つ人びとにとって、「社会に出る」ということは、「自己の経験に否定的な社会に出る」ということである」(199頁)。
 もちろん、誰もが不登校経験をネガティブに受け取るとは限らない。しかし、自分の不登校経験が相手にどのように受けとめられるかが分からず、しかも、それがネガティブなものになりやすいと予想されるということは、不登校経験をスティグマのリソースに変える。「不登校問題」は不登校期間をすぎればそれで解消するというものではなく、その後も当事者のなかに残っていくのである。
 この考えてみれば当たり前のことが、「不登校」というネーミングもあって、ボクなんかはあまり気づいていなかった。この本のなかでは、そうした不登校経験者の語りが紹介されていく。それは、いずれもどこか自分探し的なところがあって(当然だが)不登校経験をどう位置づけるかをめぐるこだわりを示しているように思われる。とはいえ、語り手それぞれが置かれている状況は必ずしも同じではなく、不登校経験に対する意味づけはそれぞれの〈当事者〉がその後の人生経験をどのように経ているかで変わってくる。
 フリースクールを「選択」として肯定的に語ることができた人は、学歴のないまま社会でやっていけている人たちやフリースクールとかかわりながら生活している人たち、一種の「不登校エリート」が多い。他方、不登校経験後の学校経験があり、高い学歴を取得している者は、不登校経験を否定的に語る傾向がある。「行けるなら学校へ行った方がいいが、子どもが苦しまないことが大切なのであり、無理なら行かなくてもよい」式の評価が幾人かから出てくるは印象的だ。そして、ここにあるのはどうみても「主体的な選択の物語」ではない*4
 不登校の「選択」という物語が、自分の生きる物語の幅を固定し不登校経験者に抑圧的に働くことがある。学校を無難にこなしてきた児童・生徒たちのその後が多様であるように、不登校にながれつき、また不登校から次のステージへ向かうそれぞれの経験は多様であり得る。貴戸が目を向けるのは、不登校経験者のなかからこうした状況を引き受け問題化する人たちがでてきたことである。

彼らが示しているのは、今ではもう「大人」になり、語ることができるようになってしまった彼らが実際に不登校であった過去の「子ども」の頃の経験を意味づけたり、「元気になった元不登校者」として〈当事者〉を代表するにあたって甘受する戸惑いや忌避の感情である。彼らは積極的に「〈当事者〉の物語」を語りながら、〈当事者〉として状況を定義することそのものが「語りえない」存在の一方的な表象につながってしまうことを感じている(275頁)。

 貴戸は彼ら・彼女らの語りを「人びとがこぞってそれについて膨大な物語を生産することによって創出された〈当事者〉という虚構の同一性をうらぎり、「理解」を差し向ける対象として「〈当事者〉なるもの」を解体していく言説実践」として評価する。「逆説的なことであるが、〈当事者〉の一枚岩性を裏切り、その実態の空虚さを示すためにこど、「〈当事者〉として語る」ことが、絶対的に重要なのではないだろうか」(276頁)と。
 ボクは不登校経験者ではないが、それでもこうした主張はとても共感的に読めた。実際、一例として紹介されているQさんの語りはとても魅力的だ。だが、こんな風にも思ってしまう。「不登校エリート」として成功するためにも、そして、貴戸が見いだしたように〈当事者〉の一枚岩性を裏切る言説戦略で生きぬくためにも、不登校経験者にかなり強い主体性を要請してしまう点ではあまり変わりがないんじゃなかろうか、と。不登校を「選択」したのではなくても、やはりなんらかのかたちで自分が置かれた状況を選ぶことが要請されているんじゃないか、と。でも、それはそれで結構ハードなことかもしれない。
 学校へ行くということが標準的な事態であるかぎり、不登校者に向けてWhy?という問いが浮上してきてしまうことは避けようがないところがある。とはいえ、それは常に当事者に説明が用意されているような事柄ではない。こうした状況があるかぎり代弁者がいることがかえって不登校者を守ることだってあるだろうし、フリースクールがそうした機能を担ってきた面があることは疑いない。しかし、それは「不登校後」までは及ばない。不登校だったというだけで、その分タフな状況を生きなければならなくなりやすいという状況がどうしても残ってしまう。だったら、貴戸が最後に指摘する「終わらない不登校を生きる」という手もありなわけだ。
 不登校経験者にかぎらず、たとえばニート・フリーターとか、自分が意識的に選んだかどうかもよくわからないにもかかわらず、タフな状況を生きなければならない人が増えているという現実があるように思う。そして、社会でふつうに生きていこうとすると自己の尊厳を確保できないのであれば、「小さな民族」として共通のアイデンティティを立ち上げ、自分たちで「ユートピア」(ノージック)を作って分離主義的な方向に走るというのは一つの選択としてありうる。実際そうした議論も見受けられるし、すでに事実上実践している人たちだっているかもしれない。でも、それわかるんだけど、どうなんだろうと思ってしまうのは、わたしがリベラリストだからなのか--。現実には、それで勝ち逃げとか、事実上の切り捨てとかありそうですよね。

不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ

不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ

*1:書評としては、こんなのあり。http://www.meijigakuin.ac.jp/%7Einaba/books/bks0412.htm。また、貴戸さんの調査手法について貴戸さんと東京シューレのあいだで論争が起こっていますので、興味のある方はいろいろググってみてください。まだその痕跡は見つかるでしょう。貴戸さんの見解はココ。http://www.shin-yo-sha.co.jp/essay/r-kido.htm

*2:で、出典は下記の401頁

子どもたちが語る登校拒否―402人のメッセージ

子どもたちが語る登校拒否―402人のメッセージ

*3:ところで、本書では不登校経験への評価とライフコースの相関を指摘しているが、不登校経験の開始年齢と不登校経験への評価って相関はないのだろうか?

*4:なお、インタビューの数が少ないから、データの有意性ということでは疑問の余地があるかもしれないが、意味連関的には首肯できる事態が確認されているから、それなりの信憑性はあるように思う