『若者の労働と生活世界』

 再読して簡単なメモを作る。この手のことを扱った本は毎年3月前後にまとめて読むのだが、今年はとある事情からこの時期も読まなければならない羽目になってしまっている。とはいえ、オススメ。掲載されている論文はいろんな領域に渡るが、問題の中心はやはりこのあたりということになるだろう。
 自分が職を得たばかりの頃、それは丁度いわゆる「ネオリベラリズム」批判の議論がでてきたときだったのだが、そうした議論を横目にみながら、状況を複雑な気分で受け止めたのを覚えている。「ネオリベ」的な改革の進行が社会の連帯の基盤を掘り崩していく懸念の一方で(まあ、そうでなくったって崩れていくのだが)、周囲を見回せばのうのうとしている上の世代がいて、その分、こっちが働く羽目になる。しかも、ヤツラの老後は安泰だが、こっちの将来はどうなるのかよく分からない。当然、働くのがバカらしくなる。もちろん、それでも定職を得ているのだから、ボクを恵まれたヤツだと言う向きだってあるだろう。さらにその外側には、もっと不安定な立場で働いている人たちもいる。いずれにせよ、そんな状態におかれれば、既得権を打破して、もっと競争をとか、能力主義をとか言いたくなるのも気分的にはよく分かる話だ。でも、そうした先に何が待ち受けているのかを考えてみれば、そんなことをするのがほんとによいことなのかは疑わしく思える。
 日本では、国家が提供する福祉サーヴィスの未発達を補う形で、人手不足もあって企業がその役割を引き受け独特の雇用慣行(たとえば、終身雇用)を作り上げてきたことが知られている(もちろん、十分な保障を受けられるのは主として「一流企業」に入りこむことができた人たちに限られたわけだが)。いわゆる、「会社主義」である。
 しかし、それが永久に続けられるものかといえばそうはいかなかったというのは、たとえば*1でも確認したとおり。のみならず、こうした雇用慣行を維持しようとして、新規採用を抑制し、正規雇用を非正規雇用におきかえてコスト削減を図るといった動きが出てくることにもなる。いま起こっていることですね。
 もちろん、こうした「会社主義」にたいして、違った社会・ライフ・スタイルを構想しようという動きもなかったわけじゃない。たとえば、生活協同組合のように、ヴォランタリーな組織を基盤として「会社主義」を超えたライフ・スタイルを追及するような運動がそれだ。だが、本書の第1章でも確認されているように、こうした構想は、しばしば主婦のような既に生活基盤を確立した層を活動の担い手として想定していた。つまり、こうした運動はたとえ「会社主義」とは違ったライフ・スタイルを構想しているとしても、その活動の寄生先には「会社主義」があった。言いかえれば、主婦をモデルにしたこの手の運動は、真の意味で「会社主義」から切り離されたところで生活していかなければならない人たちのことまでは考えていなかったのだ。

「これら二系統の議論に共通するのは、会社主義への批判を思考し、「会社の外部にある中間集団」や、「家事の外部化」を目的としつつ、それを可能にする具体的なリソースーそこで新しい雇用という足場を築くことーを、構想の埒外としていたことである」(p60)。

早い話、フリーターのような非正規雇用のもとで自立した生活を営んでいかなければならない人たちの登場を想定していなかったわけですね。
 こうした忘却は何をもたらしたのだろうか?ボクはそれを「情動の資本化」と呼んでみたい。
 たとえば、第3章では、障害者介助と比較しながら、高齢者介護に要請される過剰な「気づきの労働」が、まさにその「主婦的」な労働をモデルにしてきたことに由来すると問題提起する。「介護労働は主婦によって担われてきたために、「主婦的」なものとして認識されるようになった」(p134)*2。あるいは、第2章では、責任ある立場を任せられることで、労働に見合った収入が得られないにもかかわらず、将来的には経営改善できるという想定のもと、コンビニで熱心に働く若者の姿が紹介されている。いずれもやる気や気遣いといった個人の情動が過剰に搾取されている。
 それは働く現場だけのことではない。就職において従来のような企業とのパイプラインを維持できなくなった高校では、生徒に就職先を斡旋するために、生徒の「やりたいこと」を重視し、動機づけを図っている。また、学校が生徒の居場所となり生徒の自己肯定感を育むように機能することが望ましいと考えられている。しかも、それが時として学校に要請される教育機能と相容れないこともありうるという。「生徒支援型の学校では、生徒の「やりたいこと」を重視し、学校での学習とは関係のない進路も積極的に認める傾向にある」(p158)。ここにも情動を「資本化」していく動きが見出せる。
 だが、他方で、こうした投資の敷居はかなり高い。成功させるコストを考えれば、情動資本を退き上げるのが賢明と判断するような動きがでてきたとしてもおかしくはない。たとえば、第6章で確認される「地元つながり文化」をそうした帰結として理解することもできよう。ここでは、情動は自分の社会的成功のためというよりは、親密な仲間関係を維持する資本として投入されている。「ひとつは、彼らが「地元」と呼ぶところの、近隣の中学の同級生、先輩・後輩というつながりを基盤にしていることである。それは、高校の同級生でもアルバイトや職場の同僚でもない。もうひとつは、彼らがそのつながりによる共同的関係を、職業的達成よりも重視していることである」(p236)。
 あるいは、第9章の議論がホームレス問題に見いだすのは「意欲の貧困」である。「「意欲の貧困」とはつまり、自分の限界まで意欲をふり絞ったとしても、それが多くの人たちが思い描く「当然ここまでは出せるはず」という領域にまで到達できない、という事態である」(p338)。そして、「意欲の貧困」を怠惰として批判する声にたいして、その手の批判は、自分が企業と家族という日本型の社会保障に守られ、意欲の蓄積を実現する余裕を持てたことを忘れているという。「つまり、「一人で生きてきた」ような顔をしている人たちのほとんどは、日本型の社会保障機能(企業と家族)に頼って生きてきたのだ」(p345)。それは、最初に出てきた「会社主義」を生活基盤にしていることを忘れて新しいライフ・スタイルを追求する話とよく似ている。
 こうして話はもとに戻る。「会社主義」的な(あるいはそれとセットになった家族型の)福祉が後退した場所で、頼りになるのは自分しかいない。そのための最初の掛け金は自分の情動だ。しかし、この退潮を自明のものとする議論にはどこか嘘がある。やたらとやる気に訴える人の話って聞いててうんざりするよね。そもそも、みんながみんな同じスタート・ラインに立っているわけじゃない。潮が退いたその場所でどうすればいいかを考えるだけじゃなくて、この間隙をどう埋めていけばいいかを考える営みを広げていく必要があるんだろう。
 それに関わるのかもしれない思いついたことをとりあえず二つほど書いておけば、ひとつは功利主義ってバカにできないなってこと。それですべてを押せるかどうかはともかく、自分が置かれた状況を冷静にふりかえるためには、そこで働くことで得られる効用がどれほどのものかを計算できることはとても大切じゃなかろうか?また、何が下支えになっているのか分からない自律的な「市民」をむやみやたらと讃えるまえに、たとえどれほど問題があろうとも、ある種の「普遍性」を体現した国家の役割が何なのかを吟味する作業を置き去りにしてはいけない。このとき、モデルとして社会契約論的な発想は重要なんじゃないかと思う。どんな状況に置かれようとわれわれは契約の当事者になるのだから。

若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか

若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか

*1:http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20070919/p1

*2:もっとも、この点については、議論の余地があるように思われる。障害者が求めるサーヴィスと高齢者が求めるサーヴィスが同じものとは限らないからだ。障害者が家族からの自立を図るかたちでサーヴィスを求めるのに対して、高齢者が家族的なサーヴィスを求めるというのはありそうなことだ。もっとも、ちょっと前に取り上げた『殯の森』なんかを見てると、それが作品としていかに素晴らしくても、そんなユニット・ケアなんて無理だよとか思ってしまうわけで、この問題提起は、単にどのような労働が要請されるかというだけでなく、われわれが選択するライフ・スタイルにまで及んでいるのだと受け取っておきたい。