「こうせなあかんってこと、ないから」

 久々に二本続けて、やっと見に行った河瀬直美監督作品『殯の森』。彼女の映画を見ていると、とても女性的なものを感じる。そこで描かれる濃密な生に圧倒される一方で、どこか言葉を失ってしまうところがあるのだ。今回も---。
 たしか前作『沙羅双樹』の冒頭の方のシーンで兄弟二人で追いかけっこをする長回しの素晴らしいワン・カットがあり、そのなかで不意に片方が消える(数年経ってから死体が発見されるのだが)。それと同じように、認知症介護施設を舞台にしたこの映画のなかでも不意に人が消える。そして、それと前後してとても印象的なシーンが挿入される。
 木登りをしていたしげきが木から落ちて茶畑の方へ駆けだしていく。真千子がそれを追いかける。すると、しげきが視界から消える。よく見ると茶畑の合間からお尻をだしながら隠れていて、そこからまた追っかけっこが始まり二人の距離が縮まっていく。また、二人で森に出かけたのはよいものの車が動かなくなって、真千子が助けを求めに行っているあいだにしげきが逃げだし、戻ってくるとしげきがいない。しげきをさがしてやはり追っかけっこになり、やっと捕まえ二人で互いにスイカの破片を口におしこめあう。それはちょっと官能的だ。
 あるいは、しげきがひとり片手でピアノを弾いていると、他の介護士がやってきて片手を添える。そして、メロディが奏で始められるのだが、そうするとその介護士は去っていく。
 この視界から消えること、つまり不在が暗示するのは死だ。しかも、不在は、不在の相手がまだそこに戻ってくるかのような気分を漂わせているという意味において、生の痕跡を残した死、つまりは喪の状態、この映画でいう殯(もがり)を体現しているだろう。
 死と隣り合わせの生を生きる。しげきは33年前に妻を喪っているが、まだその思いは消えない。真千子は子どもを亡くし、それがきっかけで夫と別れ、新米の介護士としてこの施設に来たばかりだ。
 しかも、この死と隣り合わせの生は、ただ生きているということではなく、生の実感の在処を示す。最初の方のシーンで「私は生きていますか」とつぶやくしげきに向かって坊主がこう答える。「生きるということには二つ意味があります」。一つは単に生きているとうこと、「飯を食っているということです」。もう一つは「生きていると実感できるということです」。坊主は真千子にしげきの腕をにぎらせる(たしか、夫が子どもの死を嘆くシーンでは「なぜ手を離したんだ」と言ってたはず)。「感じるでしょう?」。
 この不在と隣り合わせの生は、しげきと真千子が互いにふれあうことで確認され生きられる。その交わりは次第に二人を森へと近づけていく。この映画のなかでは最初からずっと「ざわざわ」という音が背景に響いているのだが、それはどうも森の呼び声だったみたいだ(山森は、生と死が隣り合わせの神聖さと豊穣さを体現するだろう)。森のなかにある妻の墓をさがしあてようと山中をさまようしげきにつきそう真千子は、凍えるしげきの体を自分のからだであたため一夜をすごす。その明け方にしげきは妻の亡霊と踊る。生が触れ合う感触が、まだ残る死者の手ごたえとまじりあう。そうして、真千子はしげきの殯に寄り添う。
 死と隣り合わせの生がおりなす濃密な生といったまとめかたができるわけだが---。

いずれもシネマ・スコーレにて。
http://www.cinemaskhole.co.jp/cinema/html/home.htm