『ミリキタニの猫』

 ニューヨークで暮らす映画監督のリンダは、近所でミリキタニという名の日系人ホームレスと知りあう。このじいさん、自称絵描きで、絵と交換でなければ金を恵まれても受け取らないし、合州国の保護なんか受けないと言い張る頑固者。時制や前置詞が落ちる「壊れた」英語が印象的で、言葉を組み立てる以前からいくらも言いたいことがあるのだといった風情だ。だが、彼の描く絵のなかには第二次世界大戦中に収容された強制収容所の絵もあった。ミリキタニは、戦時に自分が選んだ祖国から捨てられた棄民であり、アメリカで棄民として生きのびようとするその後の半生はいわば自分を棄てた国との戦いなのだ。
 9.11の粉塵まうなか、見かねたリンダはミリキタニを自宅へ誘い、奇妙な共同生活を始めることになる。ただただ絵を描いていれば満足なミリキタニ。グランドマスターを自称する彼は世話になってもありがたがる風情も見せず、かえって夜遅くかえってくるリンダを説教する始末。
 この奇妙な共同生活の外側では、アラブ人に向けた嫌がらせが始まっている。それはかつてミリキタニが受けた仕打ちの再来だ。そんな事態に抗議の声をあげるジャニス・ミリキタニという詩人の発言が新聞に掲載され、じいさんは親戚と連絡がつくようになる。リンダとの暮らしのなかで、ほかにも、かつて彼とつき合いがあった人との連絡がついていく。
 また、自分はアメリカの社会保障なんか受けないと言い張るミリキタニを老人施設へ連れて行くと、担当者は、施設で「みんなに絵をおしえてやってくれ」と頼む。得意げに日本画を描いてみせるミリキタニ。じいさんいい気なもんだなって感じだが、彼を囲む人びとが増えるにつれ、ミリキタニはますます元気になり、曲がった背中が伸びていく。
 ミリキタニの収容時の記録から社会保障番号をたどっていくと、収容中に放棄させられたミリキタニの市民権は、戦後52年に回復していたのだが、その報告は彼のもとには届いていなかったことが分かる。年金の受給資格が確認され施設への入居が決まり、知人達をそこへ招く。最後には、旧強制収容所をおとずれ、ある意味で祖国との和解を果たし、生き別れだった姉と再会する。
 何よりも、リンダがあの汚い爺さんをすーっと自宅へ向かい入れ共同生活をはじめてしまう光景が素晴らしいし、そこから始まる受容の連鎖にこころ打たれる。頑ななミリキタニに施設で絵を教えてくれと頼む担当者、強制収容から市民権の回復まで掘り起こされる記録、それがミリキタニを囲む人びとのネットーワークを再生させる。一方で、戦時には適性外国人として日系人を強制収容しては市民権を放棄させ、9.11以降はアラブ人に対する迫害が繰り返されていたというのに。
 国家はつねに自分の都合で棄民を作り出すだろう。だが、それはそこに生きる人びととは別のことである。そういえば、当時たしかサイードアメリカについて二つの違いを語っていた。そんな違いの所在を感じさせてくれる映画だった。