問題は世界がどうなってるかを提示すること

 飯野本を読み返しつつ、ブレイクモアとスペルベル&ウィルソンを読み直している。とりあえず、ブレイクモアを読了。今度は、飯野本とブレイクモアを読み返しつつ、スペルバー&ウィルソンを読み直すことになるのだが、さしあたり思ったこと。
 関連性理論が発話行為論を批判するにあたっては、「すべての発話はそれがいかなるタイプの発話か特定できなければならない」という想定を発話行為論に帰したうえで、発話解釈がタイプの特定に先行するケースがあることを指摘し、それがどう説明できるかを明らかにすることで理論の優位性を示す。これに対して、飯野本は、タイプが特定されない発話行為もあることを所与としたうえで、発語内行為の意図を信念タイプと行動タイプの二つにまで縮約して、発話行為論を再構成する、ということでいいのかな。
 で、こう言われることになる。「言語的発話はじかに発語内行為の生成に結びつくものではない。それはまず、具体的な世界の事態を提示することに結びつき、その事態のありようを通じて、間接的に発語内行為の生成に結びつく」(272頁)。でも、そうなると二つの違いは随分小さなものになってしまうように思われるのだが。

言語行為と発話解釈―コミュニケーションの哲学に向けて

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ひとは発話をどう理解するか―関連性理論入門 (言語学翻訳叢書 (第3巻))

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関連性理論―伝達と認知

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