ピエール・マナン『自由主義の政治思想』

 前期の講義は「社会の発見」をテーマの一つにして話してみることにしたのだが、そのために読んでみて面白かった本。この本、購入した時は、日本語がところどころ壊れているのにつまづき、早々に放り出してしまったのだが、再度読んでみたら、それぞれの思想家に向けられる明晰な切り口に惹かれて読み進めていくことができた。
 なかでも面白かったのが、この本の最後におかれる思想家がトクヴィルであるということだ。モンテスキュー、ルソー、コンスタン、ギゾー、トクヴィルという流れ。トクヴィルは「自由主義の政治思想」の一つの到達点と見られているわけだ。どういうわけで?というのも、トクヴィルは、民主主義というものを制度としてではなく、社会状態として考えたからである。そうすると、代表制に見切りをつけて大衆行動に目をむけたシュミットとトクヴィルは、何を見ていたかという点ではわりと近いところにいたと言ってよいのかもしれない。
 実際にも、民主主義を制度や手続きと考えると、民主主義はかぎりなく多数決に等しいものになってしまい、なんだか奇妙なことになる*1。それなら、日本だって申し分のない民主主義国だ。でも、ちょっと前に、川崎市議補選の自民党候補山内和彦を追いかけた『選挙』という映画を見てきたが(オススメ)*2、ああして選挙の実態を見せつけられると、それだけでは民主的だと言うには何かが欠けていると感じずにはいられない。今回も名前しか連呼しない候補者をお見かけしてますよ。それで投票したってねー。
 そういえば、レイモン・アロンも、『社会学的思考の流れ』のなかで、コント、マルクスと並べて、トクヴィルを置いていた*3。そして、この3人に先行して冒頭におかれるプレ社会学者はモンテスキューだ。モンテスキューは、時として政治社会学の祖と言われるように、やはり政体を社会状態から考えたのであり、トクヴィルの民主主義論はモンテスキューの貴族政論の系譜に連なるものとみることができるだろう。
 トクヴィルによれば、民主主義とはなによりも「条件の平等によって規定された社会状態」である。民主主義的な社会状態を生きる人々は、お互いにお互いにことについて無関心であり、ただお互いが似ている/似ていない、平等である/不平等であるといことに目を向ける。平等と類似性の情念による支配が拡大していく社会。なんだか19世紀の話には思えないような問題設定だ。そして、こうした平等の情念に対抗する原理として、政治的自由が持ち出されてくる。政治的自由だけが、個人を情念から引き離して、互いを平等であると当時に異なった者にするというわけだ。というわけで、トクヴィルを読んでみたくなっているのだが、そんな暇はないか。

自由主義の政治思想

自由主義の政治思想

他にも再読したら、このあたりの本も面白かった。

近代政治原理成立史序説 (1971年)

近代政治原理成立史序説 (1971年)

ユートピア的資本主義―市場思想から見た近代

ユートピア的資本主義―市場思想から見た近代

*1:この点については、さしあたり、以下の本で主題的に扱われている。

デモクラシーの論じ方―論争の政治 (ちくま新書)

デモクラシーの論じ方―論争の政治 (ちくま新書)

*2:本人のブログはここ。http://senkyo-yama.seesaa.net/

*3: