本郷正武『HIV/AIDSをめぐる集合行為の社会学』

 台風でできた空白をこれを読んで埋める。私が、社会運動論関係の文献を読みなれていないせいなのかもしれないが、構成と内容がちょっとちぐはぐな感じがして議論の焦点がどこにあるのかいまひとつ分かりにくかったのだけれども、紹介されている知見は面白かった。要点を再構成するとこんな感じか。
 「薬害AIDS訴訟」は、血友病患者のHIV感染を「薬害」とし、HIV感染者を「被害者」、ひいては「原告」とすることで、新たなアイデンティティを作り出す一方、日本におけるエイズのイメージを大きく転換させた。しかし、エイズを薬害としてその帰責を問題にしていくと、他方で、性感染(不安)者については、その帰責が自業自得として自分自身に跳ね返ってくることになって、かえってネガティブなイメージを付与してしまうことにもなる。また、感染者は、問題の「当事者」ではあるが、むしろ、そのことを隠して非当事者的に振る舞うことの方が多く、活動の場面で感染者であるかどうか、「当時者性」を問題にすることは、かえって感染者を排除してしまうことにもなりかねない。つまり、「当事者」の置かれている状況そのものが多様であり、「当時者性」を問題にすること自体が、感染者を困難な位置におくおそれがある。
 この点で、本書で取り上げられている市民活動団体THCが採用するのは、エイズ性感染症STI)の一つと位置づけ、「誰もが感染者になりうる」とする意味論である。誰もが感染者になりうるのであれば、感染の有無や感染経路は問題ではなくなり、それは「プライヴァシー」として団体内部でも問題にする必要がなくなる。そうすれば、性感染者にたいする道徳的判断や匿名感染者の排除は回避できるだろうし、広範なアクセシビリティを保証することができるだろう。しばしば、セルフヘルプ・グループでは、メンバーを匿名的な関係におくが、この場合は、この意味論がその役割の一部を果たしていると言ってよいのかもしれない。

「加害者-被害者図式をもってHIV/AIDSを語る戦略的フレーミングに代わりに登場したこの戦略的フレーミングは、感染当事者を理解する枠を押し広げる役割を果たした。つまり、HIVを含んだ非加熱血液製剤を使用した血友病患者だけの疾病ではなく、性行為をする人すべてに感染の可能性やリスクがあるとする点である。STIの1つとしてHIV/AIDSを語る戦略的フレーミングは、「誰でも感染当事者になる」ということを各自に突きつける。そのように考えれば、一部の人間を感染のスケープゴートに仕立て上げ、偏見や差別をもって接するということができなくなるであろう」(197-8頁)。

 そうは言っても、感染(不安)者は(潜在的な)当時者であり、多様なニーズを抱えている。このニーズに応える枠組みを用意するのも「誰もが感染者になりうる」という意味論である。誰もが感染者になりえ、抱えているニーズも多様であるならば、それぞれの人にとってHIV/AIDSの当時者性とはその都度探求されるべきものになる*1
 また、この意味論の下では、当事者意識を求められるのはむしろ良心的支持者である。そもそも、多様な感染者が認められる以上、良心的支持者にとってもパターナリスティックな処方箋を用意することは、かえって自己の立場を危ういものにしかねない。だが、「誰もが感染者になりうる」という意味論のもとでは、当時者性が多様でその都度探求すべきものなる一方、共感的な枠組みが提供される。たとえば、良心的支持者として、電話相談員等の活動にコミットすることは、多様な感染(不安)者と向き合えるよう、価値観を相対化・操作化し、それぞれの人にとってのHIV/AIDSの「当時者性」を探求していかなければならない。つまり、感染(不安)者それぞれの「当時者性」の探求は、感染(不安)者のみならず、感染(不安)者と向き合う良心的支持者にとっても共通の企てとなる。そして、それは良心的支持者にとっての「当時者性」の探求でもあるのだ。「当事者意識をもつこと、さらにいえば、自身の中のマイノリティ意識に気づくことこそが当時者性の探求となる」(199頁)。
 当事者が不可視のスティグマを抱えており、しかも、共通の集合的アイデンティティを確保できないときに、良心的支持者も含めるかたちで当事者性を拡張し、当事者性を浮上させずに活動を組織していく戦略があるというのはなるほどという感じだった。
 でも、これをタイトルにもあるように集合行為とか運動とかいったかたちで括られるとなんだか違和感がある。実際、アメリカでは事業として行われているそうだし、本書の最後では「事業性と運動性の併存に向けて」といった議論もなされている。つまり、いわゆる「運動」とは異質な要素が含まれてきているわけだ。そして、「運動」ということでいえば、被害者というカテゴリーを採用して集合的アイデンティティに意味を供給できた時期の方がより「運動らしい」色彩を帯びていたと言えるはずだ。
 してみれば、薬害HIV訴訟運動から現在に至るまでのあいだにどのような意味論の変遷があり、また、それがどのような「運動」の変質を伴っていたのかを考察するような議論も読みたかった。それは、運動の変遷のなかで、「運動」とは何かを定義し直したり、自分たちの活動のどこに運動を見出すか再考を促されるといった契機を含んでいるだろう。わたしも多少は見る機会のあった水俣のケースで「良心的支持者」に求められる事柄は以前とは違ってきていると感じている(たとえば、いまの相思社やほっとはうす)。そんなことが念頭にあったので、余計な注文をつけてみたくなった。

HIV/AIDSをめぐる集合行為の社会学 (MINERVA社会学叢書)

HIV/AIDSをめぐる集合行為の社会学 (MINERVA社会学叢書)

*1:もっとも、ケアって本質的にそのようなものではないかとも思うのだが