意思表示せまり声なきこえを背にただ掌の中にマッチ擦るのみ(岸上大作)

 これはうれしい誤算なのだが、今年はゼミ生と一緒に生田武志『〈野宿者襲撃〉論』を読んでいる*1。この先どんな議論ができるのか楽しみ。もっとも、まだ初回だしのろのろと進んでいる。ふと思って学生にホームレスを見たことがあるかと尋ねてみた。そしたら、ほとんどの学生がホームレスを見たことがあった。まあ、さすがに地方出身だと見たことがない、あるいは名古屋にでてきて初めて見たというケースもあるようだが。
 さて、これは多いというべきなのか、少ないというべきなのか?思い出してみれば、自分が初めてホームレスを見たのは関東へ引っ越して東京に出かけて行くようになってからだった。公園をねぐらにしているホームレスをみて「あらら」と思ったのがおそらく最初だと思う。それは、ちょっとしたカルチャー・ショックだった。もう軽く20年はさかのぼる頃の出来事である。そして、実家の周辺にホームレスがちらほら現れるようになったのは10年も遡らない。そう考えていけば、近年ならわりと幼い年齢でホームレスを目撃している子供だちが増えているといってよいのではないか。
 ところで、このことは何か有意な帰結をもたらしているのだろうか?つまり、幼少期のホームレス目撃経験がその後の何かと結びつきやすいというようなことがあるのだろうか?なさそうな気もするのだが、少なくとも、子供の目撃経験に対して、親や身近な人たちがどのような態度を採るかが問われざるを得なくなる、というのは確かなことではないだろうか?そして、この本の冒頭で問題にされていることは、まさにそのようなことなのだと言ってよい。
 著者である生田によれば、ホームレス襲撃事件や酒鬼薔薇事件をめぐって「いまの子供は---」式に大人が語るのを前にして、若者が「あの少年たちは遊んだだけよ」とか「なぜ人を殺してはいけないのかわかならい」といったさらにとまどいをさそう反応を見せるのは、「かなりの部分、社会の無責任な発言に対する「過剰反応」だったはずだ」という。
 この「過剰反応」という物言いはちょっと分かりにくいところがあるのだが、こんなことだろうと考えてみた。われわれがこうした事件を前に「いまの子供は自然と触れる機会がないから---」とか「いのちの大切さを分かっていない」とか口にするとき、たとえそれが一面の真理を含んでいるにしても、こうした一般論は語り手の顔を見えなくする。誰でも言えることを確認するだけなら〈私〉の責任はさして問題にならないわけだ。もっとも、とりわけ教育的立場にある人間がそんなことを口にすれば、「あんた何やってたの?」ってことになるはずだと思うけれど。
 それに対して、たとえば、酒鬼薔薇事件は同じ年頃の子供たちに共感的な反応を生んだと言われているが、それと同じように、若者たち(だけにかぎらないかもしれないのだ)が、ホームレス襲撃に手を染めた少年に共感できる部分を持っているとすれば、彼らにとってそれは一般論もしくは他人事で切って捨てることなどできない自分にも通じる切実な問題だということになる。しかも、子供をひとしなみ同じ平面にすえる一般論は、それを所与として子供が何かを語り出そうとするならば、「いまの子供」としてホームレス襲撃に手を染めた少年と同じポジションから語らざるをえないような状況を与えてしまっていることに気づくべきだ。ここでは、自分から見れば切実な問題を語り出そうとすると、それが一般論になってしまうという奇妙な反転関係が生まれている。
 だが、誰であれ他人のポジションに完全に自分を重ねて語ることなどできやしないし、いくら共感できるにしても、一線を越えたか越えないかの違いはやはり大きい。だって、自分が実際に実行してみたわけでもないのに、どうやって実行犯のいる場所にまたどりつくことができるだろう。こうした懸隔があるにもかかわらず、無責任な一般論に対峙して事件を共感的に語ろうとするならば、どうしても共感的には語り尽くせない過剰な部分が生まれてきてしまうにちがいないし、それを無理に言葉で埋めようとすれば、「あの少年たちは遊んだだけよ」とか「なぜ人を殺してはいけないのかわかならい」といった飛躍、つまりは過剰反応を呼び込んでしまう。そういうことではないか*2
 過剰な重ね合わせと過剰な切り離し、そのどちらに傾いても、そこから出てくるのは相手をとまどわせるだけの一般論だ。だとすれば、そうした言葉が必ずしも誤りではないとしても、事態をまともに受けとめるにあたってそこに過剰にこだわることがどれほど大切なことなのかはよく考えてみてもいい。
 そこで、生田が目を向けるのがこの社会に広がるホームレスに対する偏見だ。「社会全体に浸透している野宿者差別を抜きにしてこの事件を語ることは、当然ながらできない」。そして、それをこんな風に問題にする。「振り返って、かの東村山市の中学の校長の「いのちの大切さ」という発言は何を意味していたのか。もしかしたら、あの言葉の真意は(ホームレスといえども)いのちは大切だ」というものではなかったか(ありうる!)。だとすれば、この「いのちの大切さ」という言葉は、実は確信犯的な差別発言なのである」(17頁)。
 これを読んで、最初、自分でも「どきっ」としたし、なるほど鋭い指摘だと思ったのだが、再読してみて、これはちょっと酷な指摘なのではないかとも思えてきた。これって、本人の意識以上に語り手の置かれている場の構造的な問題ではないだろうか?自分の生徒がホームレスを襲撃して、しかも、それがホームレスに対する偏見にもとづいているとしか考えられないのであれば(他に何が考えられるだろう?)、「ホームレスだって---」という語り口を使わないというのはかなり難しいことのように思える。それは、自分が生徒の攻撃対象を名指そうとすれば、わりと簡単にでてきてしまうステレオタイプ発言の一つなのだ。
 たしかに、このとき教師も子供もホームレスに対する偏見・差別を共有してしまっているといえば共有してしまっている。だが、残念なことかもしれないが、ホームレスを前にして「くさい」とか「汚い」とか不快な印象を抱いてしまうことは、大人であれ子供であれ、それほど不自然なことではない。わたし自身ホームレスに対して何の偏見も抱いていないのかと問われれば、胸をはってそんなことはないと言い切れる自身などまったくない。そして、自分がそうした偏見から自由になれないのであれば、さしあたりはそうした自分の偏見とつきあっていくしかない。むしろ、「いのちの大切さ」式の一般論がうさんくさいのは、こうした自分のなかにある原-差別意識にふたをしてしまおうとするからではないか。
 もちろん、われわれのうちにそうした原-差別意識があるからといって手を出してよいかといえば、それはまったく別のことだ。そして、これはホームレスにかぎったことではない。ふだんの生活のなかで、どうしても好きになれないムシの好かないヤツが現れてきてしまうというのは、決して気持ちのよいことではないが、往々にしてありうることだ。でも、だからといってソイツに危害を加えてよいということにはならないし、そんなことをさせておくわけにはいかない。それを許しておく教師なんてまずいないだろう(いるかな?)。
 ところが、それがホームレスだということになればこの境界線はしばしば曖昧になる。そして、どこからか「排除しろ」という声が聞こえてくる。われわれが他人にたいしていだく不快感、それはひとまず自分の心におさめておける問題だ。ところが、その他人がホームレスだということになれば、その不快感がただちにホームレスという対象そのものに属する特徴であるかのような実在性をおびて攻撃的な発言を引き寄せてしまう。ボクが思うにむしろ問題はここにあるし、だから、何かを発言しようとすればこの点を問題にしなければならない。
 おそらくこの点で一般論は最悪だ。というのも、いくらわれわれが一般論を述べようとも、実際にどのように感じているかは、また別のところに残しておけるからだ。当然、子供だってそのことは見抜いている。それはホームレスが受苦している日常を見れば分かることだ。はっきりさせなければならないのは、実際われわれがどのように感じているかは、どうすべきかとは直接には関係がないということだ。そして、この点を明らかにするためには自分がどのような立場を採用するのか態度を明らかにするしかないように思われる。たとえば、「君たちがとった行動は大変残念なものだ」、「今後、絶対君たちにこんなことをさせない」、「もし、君たちがまた同じことをしようとするなら、自分はホームレスを守る側に回る」といったかたちで態度を表明していくしかないのではないか?もちろん、それは、ふだんの自分のホームレスに対する態度が問われてくることにもなろう。
 この問題構成はホームレスにかぎったことではない。たとえば、イジメ。「イジメはいけない」式の一般論は、いじめる側だって少なくともたてまえの上では知っているわけだし、現に行われているイジメを前にして、それを確認したって何の意味もない。確認しなければならないのは、それがただのたてまえではないってことだ。だとすれば、自分が徹底して虐められる側にたち、虐める側から彼/彼女を徹底して守るという態度を示すしかできることはあるまい。こんなときは、一般論に身を隠すのではなく、問題のアリーナに自らの身をさらすしかないのだ*3

「野宿者襲撃」論

「野宿者襲撃」論

*1:著者のサイトはここ。http://www1.odn.ne.jp/~cex38710/lastdate.htm

*2:学生をちょっと挑撥してみたら、まさにそうした発言が飛び出してきて「それって、ここで言う過剰反応じゃないかな」っていうことになって、この点を確認できたのだった。

*3:斎藤純一が「範例の政治」と呼ぶものがこれに重なるように思われる。「自己倫理の涵養を通じて習律としての規範や集合的アイデンティティから距離をとる人々は、文字どおりエクセントリックな、中心から逸れる範例=個別の事例を他者に呈示する場合があるはずである。それも、例外状況での行為のみならず、日々の振る舞いや生の様式においても。範例は、他者の同調を誘う模範や誰もが見習うべき手本でもなければ、他者の欲求や不満を代弁・代行するようなモデルでもない。それは、他者を同調させるのではなく他者を触発する。モデルの政治が複数性を奪いコンフォーミズムを惹起するとすれば、範例の政治は、逆に複数化の効果を放つことによってそれに裂け目をつくるのである」(86頁「民主主義と複数性」『思想』867[1996 9月])