48パレスチナ

 今回も最終日すべりこみで『パラダイス・ナウ』を見てきた(@名古屋シネマテーク)。いわゆる「自爆テロ」に向かう二人の若者の最後の二日間を描いた作品である。きわめて深刻で党派性のからんでくる主題を取り上げているというのに、決して扇情的にはならない乾いた感じがあり、時にそこはかとないユーモアも漂う。われわれが真面目にやっていることって、端からみると時として滑稽だったりするのだ。そんな抑制された感じがこの映画にリアリティを与えているし、だからこそパレスチナ人にかぎらずこの映画に共感することができる。実際、この作品をみたイスラエル人が「テロリスト」に感情移入して困惑したという。監督のハニ・アブ・アサドはそれをこんな風に語っている。

「観客が主人公に最大限感情移入することができれば、例え現実には周りに絶対いてほしくないタイプの主人公に対してでも感情移入をさせることができれば、あなたの物の見方は変わりますよ。私は強く信じています」(27頁)。

 ある日、自動車の修理工場ではたらくサイードとハーレドのもとにそれぞれ組織の指導者がおとずれ、明日自爆攻撃を実行することになり、その任に二人が選ばれたことが告げられる。ここからクローズ・アップが多用される。その夜、二人は家族のもとですごし、さらにサイードはその日に知りあった女性スーハのもとをおとずれて話をする。彼女の父親も殉教者であり、スーハは「英雄」の娘であることに苦しんでいる。

 翌朝の殉教ビデオを撮るシーンがスゴかった。ハーレドが犯行声明を読み上げ、さらに家族へのメッセージを伝えるのだが、そのときヴィデオ機材の調子がおかしくて撮影が二度もやりなおしになる。しかも、撮影の最中にリーダーは物を食う!自爆攻撃に向かうハーレドの感情的な高ぶりと組織の他の面々の冷徹な表情のなんともいえない落差。だが、ボクはこのシーンを十分につかめていなかったようだ。このシーンは実際に殉教ヴィデオが撮られた場所で、自爆攻撃を行う組織の立ち会いのもとに撮られている。そして、パンフにあったアサド監督と四方田犬彦との対談にはこんなやりとりがあった。スゴすぎる。

「A:例えばあなたが自爆攻撃をすることを決意して、---。そして、私が組織のリーダーだとします。もし、私があなたに感傷的な気持ちを抱いてしまったら、あなたの体に爆弾のベルトを巻きつけることはできません。ですから、彼らは自爆攻撃する人間と彼らとの間に感情的な線引きをする必要があるのです。彼らは、その一線を引くために、食べるという行為をしなくてはならなかったのです。自爆する人間に感情移入をしてしまうと、組織の人間にとっても辛いでしょう。この人間は爆弾を巻きつけて、自分を爆発させに、これから向かうのですよ。これは彼らなりの、事をうまく運ぶための演出なのです。---
 Y:自爆攻撃を計画する組織は、この場面を承認したのですね。
 A:これが、真実だからですよ。これが現実に行われていることだと”彼ら”はわかっているのです。食べるという日常的な行為を通して、自爆攻撃という非日常的な行為を行う者に感情移入しないようにしているのです。そうしなければ、組織の人間も精神的にとても辛くなります。---。サンドイッチを食べることもできるし、カメラだって壊れることもある、という日常を作り出すのです」(24頁)。

 だが、同時にこの落差は二人に二人の置かれた状況を見つめ直す機会を与えるだろう。この時点で、乗り気だったのはハーレド、むしろ醒めていたのはサイードだった。「正しいことなのか?」。この落差は、いざ実行しようと壁を超えてイスラエル側へ渡ろうとするときにもういちど現れてくる。というのも、監視の車が回ってきて計画は中断、このときサイードは仲間とはぐれてしまう。

 それでも、サイードは一度は一人でイスラエル側に渡りバス停までやってくるのだが、いかにも田舎という風情で子どもが乗り込んでいくとき、彼はいっしょに乗り込んでいくことができない。他方、組織の方はハーレドが裏切ったのではないかと大騒ぎになり、それを打ち消すハーレドはサイードをなんとか見つけ出そうとする。サイードも仲間のもとへ戻ろうとするのだが、アジトは引き払われているし、すべてがすれ違う。

 二人はイスラエルに潜入するにあたって髭をそり落とし、正装をしている。そのユダヤ人みたいな格好で爆弾を体に巻きつけたまま(外そうとすると爆発する)、ナブルスの町をうろつくサイードの姿はなんとも滑稽だ。だが、その格好は壁に囲まれ外側にでることもままならずいつ撃ち殺されるかも分からないパレスチナ人たちの姿に重なるだろう。

 また、サイードについて回る記憶がもう一つある。町をさまようなかたまたまスーハと再開した道行きで、二人は、殉教ヴィデオだけでなく、密告者の斬殺ヴィデオが出回っていることを知る。ここでサイードはあらためて父の業から逃れられないと観念して、スーハに父のことを告げる(そういえば、母との別れ際に「父さんにそっくりになった」と言われていた)。イスラエル人は人の弱みにつけ込んでくる。サイードの父はいい人だったが弱かった。家族を守ろうとイスラエルの密告者になり、それが露見して殺された、と*1。しかも、イスラエル人は加害者であるのに被害者面をする。彼らが加害者であるのに被害者の顔をするなら、被害者である我々も殺人者になるしかない。

 そうしたサイードをようやく見つけてハーレドがとびつくシーンにも泣けた。自分の一番大切な友人が爆弾を腹にまきつけたまま、そのうえ組織からも追われていたのだから。自分にとって大切な人間が死にさらされている。このとき、ハーレドは「英雄」の娘スーハと重なる場所へいざなわれ(占領の代償として身近な人間を失う)、また、サイードに重なる場所にいざなわれ(身近な人間が裏切り者扱いされる)、それを免れる(もしも、サイードが死ねば、ハレードも自爆攻撃を選んでいたはずだ)。

 こうしてハーレドとサイードはそれぞれ最初とは違った視点を獲得し、そこからもう一度自らの選択を選びなおす。「すべての兵士が、それぞれ”個人”の物語をもっています」(29頁)。あらためて二人は自爆攻撃に向かうのだが、そこでハーレドはサイードに翻意を促す。サイードは、いったんそれに従うフリをすることでハーレドを送り返し、今度はイスラエル兵に囲まれるバスに乗り込む。

 感情移入して見てしまった分だけ、この映画を他のものに重ねて語りにくい。だって、それは彼らがそれぞれ個別の状況を生きているということと受け入れたことになるのだから。でも、この映画を思索の導きにするなら、それを超えた語りも必要になる。そして、ボクはこの映画を見ながら、サイードにニヒリストの姿を見ていた。映画のなかの組織のリーダーたちからまさにうかがわれるように、暴力というのはきわめて道具的だ。「一人が先に決行し、もう一人は15分後にやれ、その方が効果が増す」。「先に死んだヤツの姿は見るな」。暴力はあくまでも何かの手段として採用されるし、そうでなく暴力そのものが目的になるとすれば、われわれはそこ狂気を見るだろう。いずれにせよ、暴力にかかわるとき人はどこかしらかわいていなくてはならない。

 「幽閉者」(テロリスト)であり、ニヒリストであること。いまのところこのことについてこれ以上語れることはない。だが、この二つの言葉を並べると、どうしても革命前のロシアのことが思い出されてきてしまうし、ニヒリストということでいえば、どんなストーリーだったかもうよく覚えていないし、ありきたりなのかもしれないのだが、ドストエフスキー『悪霊』のスタヴローギンが気になってくる。もっとも、再読するにしてもあの分量だ---。どうなるかわからん。すまん。

*1:この点を重信メイはこんな風に語っている。「中東社会は、裏切り者に対して冷たいが、友は最後まで味方であり、社会に溶け込むことができる。住民と同じ運命を結ぶことは、この上ない見返りを与えてくれる。貧しい者は飢え死ぬことなく、孤児も見捨てられることはない。病の床に伏す老人たちを見放す者もいなければ、助けを必要とする女性、危険にさらされている女性には多くの救いの手が差し伸べられ、旅人には必ず身を寄せるところがある。よそ者であっても、道行く人々声をかけてくれる。私の経験から言えるのは、アラブの世界は苦しい中でもいつも暖かく迎え入れてくれる」(18頁)。