ローザス ”デッシュ” 

 ローザスという女性主体のダンス・カンパニーがある。このローザスの作品って映画でしか見たことがないので、今回、滋賀で公演をすると聞いて是非とも生で見てみたいと思って出かける。しかし、開演前にパンフの評で言及されていた菊池成孔の「モダン・ジャズで踊れるのか?」という主旨の発言を読んでしまったせいか、いささか意地悪く見てしまったかもしれない(ちなみに、この日は、名古屋で菊池成孔を見るか、滋賀でローザスを見るか天秤にかけてこっちへ来たのだ)。
 この作品をみて感じたのはなによりもゆるさだ。映画で見た作品では、複数の演者の動きが完全に重なるように振り付けられており、それがもたらす緊張感に息を飲んだ。だが、この作品では、二人で同じ動作をしても、それが完全に同調することはなく、むしろ微妙にずれていてなんだかルースな感じがする。実際、踊っている最中にダンサーが微笑み合ったりもしている。もちろん、いい加減にやっているわけではなく、そのように演出されているのだろうが。
 こうしたゆるさは舞台の作り方にも感じられ、舞台を幕でもって客から遮ることなく、演者は、この舞台に練習でもしにきたようにソデから現れてはなんとなく踊り始める。後方には、黒と白の垂れ幕がだらんと掛けられており、ときどきそれが上下する。また、舞台の両ソデにはイスが置かれ、真ん中にオープン・スペースを作ろうとわきによせたような感じになっている。
  いじわるに見てしまったというのは、ジョン・コルトレーン「インディア」(『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジバンガード』)のほかにインド音楽が4曲、いずれもインプロヴィゼーション主体のいわばトリップ・ミュージックであり、これをどう踊るんだか、と構えて見てしまったからだ。実際、自分のなかではあまり音楽とダンスがおれあってくれず、どっちか片方に意識が向かっていきがち。これも楽曲とパフォーマンスのあいだにあるゆるさといえばゆるさなのだが。
 一曲目は、わりと他のローザスの作品でも出てくるようなイディオムを使った女性二人のダンスで、途中で音楽が途切れたりもする。アフター・トークによれば、インプロヴィゼーションなしでくんであったらしい。ローザスのイディオムは、ヨガにインスパイアされているとのことで、なんか武道みたいで東洋風といえば東洋風なのだが、今回の作品にあわせて、とりたててインド的なイディオムを取り入れているということはないみたいだ。
 2曲目以降は、インプロヴィゼーションも組み込んであり、たとえば、コリオグラファーでもあるドゥ・ケースマイケルが一人で踊った二つ目では、コンポジションインプロヴィゼーションが交互に組み合わされていたとのこと。そんなことまでは分からなかったが、明らかに、最初とは違った感じがしてきた。3曲目は、さらに共演・共作者として招いたサルヴァ・サンチェスも含めた3人。4曲目のコルトレーンはサルヴァ・サンチェスのソロで、なぜか一度中断してから再度踊り始めたのだが、なんのかんのいっても、これなんかかなり見応えがあった。とはいえ、これはゲストのサルヴァ・サンチェスが自ら振り付けた作品だったりする。そして、最後も、3人で。
 そんな感じだったのだが、このゆるさは、もちろんインプロヴィゼーションのゆるさ(自由)と結び合うだろう。とはいえ、私はどうもそれを理屈として受け取っていたようなところがあって、ダンスそのものから十分に体感できなかったような気がしている。まあ、それは貧しい観客である私の側の問題なのかもしれないが、同時に、彼女たちの緻密でクールなスタイルと音楽の飛翔感の落差から生まれてくるもののようにも思えた。
 以前には、マイルスの『ビッチズ・ブリュー』をやり、コルトレーンの『至上の愛』をとりあげており、インプロヴィゼーションというのが一つの課題としてあるのだろうけど、これらはどんな感じだったのだろうか?ちなみに、菊池が酷評していたというのは前者だ。また、ベルギーのジャズ・グループとも共演しているとか。グルーヴを殺したヨーロッパのジャズならまた違った印象もあるのではとか思ったりもして。まあ、いつ見ても思うのだが、ダンスを一度見て、どうこうというのは正直言ってシンドイ。また、この作品をいつか見るチャンスがあればよいのだけれど。とにかく、これでライヴ・ウィークはおしまい。あとは、仕事、仕事、仕事。

ローザス・ダンス・ローザス [VHS]

ローザス・ダンス・ローザス [VHS]