グアンタナモ、僕たちが見た真実

 今週末に終わってしまうから今日しか見られる日がないと、夕方買い物がてら出かけて見てきた。わりとオススメ。
 本来、戦時捕虜は戦争が終了したら解放されることになっている。しかし、米軍によるアフガニスタン攻撃に伴って生じた捕虜は、「捕虜でも犯罪者でもない敵性戦闘員」としてキューバグアンタナモ基地で拘束されたのみならず、虐待を受けていたことが明らかになった。この映画は、グアンタナモで拘束されていたパキスタン系イギリス人の証言にもとづくセミドキュメンタリーだ。
 友人がパキスタンで結婚するというので、パキスタンへ帰郷した彼らは、アフガニスタンの内情をきき、その実態を見て何か手助けができないものかとアフガニスタンに旅立つ。しかし、爆撃が始まってしまいパキスタンに戻ろうとするのだが、なぜかタリバンの本拠地に連れて行かれる羽目に陥り、拘束される。アフガニスタンの収容所で、米兵に一人が自分がイギリス人であることを告げるのだが、かえって自分たちがアルカイダのメンバーではないかという容疑をかけられ、さらに、グアンタナモへ連れて行かれ虐待を受け続ける。
 こういうことを書くと不謹慎なのかも知れないが、収容者を虐待する米兵の姿はなんだかコミカルだ*1。取り調べに連れて行くときは、わざわざ捕虜拘束の訓練みたいなことをするし、言うことをきかない収容者に対しては、黒ずくめ重要装備の4,5人組がやってきては殴る蹴るの暴行をはたらく。無力と分かっている相手に向かってこの大業なやり口はなんなわけ。まるで、ゲームをしているみたい。実際、ゲーム感覚でなければこんなこととってもやっていられないのではあるまいか?考えてみれば、あの「アイヒマン実験」だってゲーム感覚だよね。残酷さのなかにも面白さを味わえるようにすること。その意味では、イジメにも似ているかもしれない。そして、そのために収容者に向けて繰り返すのは、「眼をあわせるな」、「規則を守れ」ってことだ。
 皮肉なことに、彼らが解放されるきっかけは仲間の一人に前科があったせいである。といっても、微罪。だから、有色人種ということであげられていた可能性もある。彼らがアフガニスタンに行ってアルカイダの集会に出ていたという時期にその一人が保護観察期間にあったのだ。しかも、それが分かっても米軍は誤りを認めようとせず、なかなか解放もしない。
 『それでもボクはやってない』を見たときにも思ったのだけれど、本来なら公正な取り調べ、裁きがなされるはずの場が、囚人のディレンマ状況みたいに、主観的な妄想でゆがめられてしまうのはどうにかならないのだろうか?相手が信用できたものか分かったもんじゃないという予断のもと、欺かれるという最悪の事態を避けるために、取り調べ裁く側は過剰に相手の有罪ストーリーを思い描いてしまう。そして、その誤りが明らかになっても決してそれを認めようとしない。
 それでも、この悲惨なストーリーがそれだけに終わらないのは、捕まった彼らが蛮行の過程で次第に強くなっていくことだ。虐待を受けた本人たちが再現映像の合間で登場しては証言を繰り返する。といって、目覚めた彼らはその手の運動にコミットしていくというわけでもなく、それまでの日常に戻り、最後はパキスタンへ行き今度こそは結婚式に立ち会う。法外な体験をへた後に、それでもふつうに生きていけるということ、それ自体が大したことではないだろうか。

*1:もっとも、他のドキュメンタリーによれば、民間軍事会社の社員が関与していたというのだが