「セロ弾きのゴーシュ」再訪

 で、少しあいだがあいたが、宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」を再読してみたことはいうまでもない。考えてみれば、少なく見積もっても15年ぶり以上にはなる。よく知られているように、この話は三つのパーツからなり、オーケストラのリハーサルと演奏会のシークエンスのあいだで、毎夜セロの練習をするゴーシュのもとに動物が訪れてくる。あらためて読んでみたら、この動物はゴーシュを映し出す鏡のように思えてきた。北村の読みに影響されているところもあるだろうがちょっと読み解いてみよう。

 サルトルは、人間は対他存在であるという。素朴に考えても、子どもの前では母親であるものが、パートにでかければ店員になるといった具合に、われわれはその都度かかわる他人に応じて自分の役割を変えている。つまり、自分が何者であるかは、その都度自分が向き合う他人によって決まるわけである。これは、裏を返せば、自分が何者であるかは向き合っている他人を見れば分かるということでもある。このような意味において、他者は自分を映し出す鏡の役割を果たす。「セロ弾きのゴーシュ」のなかでも、動物(=他者)はゴーシュを映す鏡の役割を果たしており、次々と現れる動物に応じてゴーシュもまた変わっていくことが分かる。

 最初にゴーシュのもとを訪れるのは猫だ。しかも、この猫は贈り物だといってゴーシュの畑にあったまだ青い半熟のトマトを差し出す。なんでトマトなんか持ってきたのか?ゴーシュの畑にある青い半熟のトマト、というのだから、これはゴーシュ、それも奏者としてまだ未熟なゴーシュを映していると考えたくなる。それだけではない。芝居で紹介されたエピソードによれば、賢治は、痩せた土地でも栽培できるトマトを農民に普及させようとしたが、それがうまくいかったとのことだから、この青い、だからまだ人の手に届かないトマトは、さらに賢治(=ゴーシュ)を映していると考えてよいだろう。もっとも、猫がそれを贈り物だとしている点は残るが。それはひとまずおくとして、

 ゴーシュはこの猫を邪険に扱うのだが、青いトマト=ゴーシュを視野に入れると、これは次のように理解できる。つまり、猫は、青いトマトを介して未熟なゴーシュの姿を映しだしており、未熟な自分を直視できないゴーシュは、青いトマト(=未熟なゴーシュ)を差し出す猫を拒絶しているのだと。こうした理解を強化するのが、ゴーシュが弾く「印度の虎狩」だ。「印度の虎狩」を演奏するとき、ゴーシュは「はんけちを引きさいて」自分の耳をふさぐ。つまり、自分自身の音(=ゴーシュ)を聞くことを拒絶している。それを猫に聞かせているのである。ここにも、青いトマトと同じ構造を確認することができるだろう。猫は、ゴーシュには受け入れられない、あるいはゴーシュの知らない、ゴーシュの姿を差し出しているのである。

 つぎにはかっこうがとんでくる。かっこうを前にしたゴーシュにはちょっとした変化が生じる。まず、かっこうの練習につきあってやる。そのうえ、かっこうにあわせて「かっこう、かっこう」とやっているうちに、自分が出している「かっこう」よりも、かっこうの「かっこう」の方が正しい音程で奏でられているように思えてくる。「ゴーシュははじめはむしゃくしゃしていましたがいつまでもつづけて弾いているうちにふっと何だかこれは鳥の方がほんとうのドレミファにはまっているかなという気がしてきました。どうも弾けば弾くほどかっこうの方がいいような気がするのでした」。ここでもかっこうの「かっこう」がゴーシュの「かっこう」(=未熟なゴーシュ)を映し出す鏡の役割を果たしていることが分かる。でも、それを受け入れられないゴーシュはやはり怒り出してしまうのだ。

 そのつぎに、やってくるのは子狸。子狸を前にしたゴーシュはさらに受容的だ。子狸と「愉快な馬車屋」をあわせているうちに、狸に「ゴーシュさんはこの二番目の糸をひくときはきたいに遅れるねえ」と言われてしまう。はっとしたゴーシュは、ゆうべからそんな気がしていたことに気づくのだが、それでも怒らないし、セロにあたるわけでもなく、むしろ、自分が悪いセロを使っていることを受け入れたうえで演奏を続けようとする。こうしてみれば、動物との出会いは、ゴーシュが自分の出す音を自ら聞くようになる過程、現実の自己を受け入れていく過程であることがわかる。だが、それだけではない。

 最後に野ねずみの親子がたずねてくる。ここでゴーシュは、母ねずみから自分の奏でるセロの音が動物たちを癒していたとおしえられ、毎夜動物たちが自分のもとを訪れてきたわけを知ることになる。動物の訪問には治療という隠された意味があったのだ。こうして、ゴーシュは、動物たちの訪問を介して、自分の出していた音に耳をかたむけるようになっていっただけではなく、自分の出す音が動物たちのあいだでどのように聞かれているかをも知るようになる。となれば、動物とのやりとりは、ここまで確認してきたのとは異なるもう一つのゴーシュの姿をも映し出していたのだと言ってよいだろう。 それは、動物たちに受け入れられ、他者(=動物)との調和的な世界を生きているゴーシュの姿だ。 それは、また賢治が花巻の農民たちとのあいだに築きあげたかった世界像だったのかもしれない。

 このように見てくれば、猫がゴーシュの畑のトマトを贈ったこともわかるのではないだろうか?母ねずみがことの次第を語って、ゴーシュの出す調子っぱずれのセロの音(=ゴーシュ自身)が動物たちに受け入れられていることを示したように、それは、ゴーシュのこしらえた半熟の青いトマト(=ゴーシュ自身)が猫に、ひいては動物たちに受け入れられているということを示していたのだ。そして、動物たちによる受容、動物たちと調和的に生きる世界への包摂、ゴーシュ(=賢治)が願うこれ以上の喜び、これ以上の贈り物はなかったはずだ。だからこそ、ゴーシュはこの贈り物への返礼として、野ねずみの親子に、当時はトマト同様風変わりな食べ物であったであろう、パンを贈るのである。

 この自己と他者のあいだに生まれる調和的なヴィジョン、それはハーモニーとして表現できるようなものであろう。だから、次の演奏会は成功する。しかし、ゴーシュにはやり残したことがある。なぜなら、自分に贈り物を届けてくれていたというのに、猫とかっこうに冷たくあたってしまったからだ。だから、ゴーシュはアンコールで「インドの虎狩」を弾かなければならない。これは、演奏会のアンコールであるというだけではない。それ以上に、猫に弾いてやった「インドの虎狩り」のアンコール(贈り物)でもある。そして、今回は、猫が苦しんだところも聴衆はしーんとなって一生懸命聞いている。さらに、かっこうにも謝らなければならない。だから、こう言うのである。「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ」。すべてを見つめていた空に向かって。