Bodies That Matter

 わたしにはもともと演劇を見る趣味などなかったのだが、それでも名古屋に来たら一度くらいは北村想、脚本・演出の芝居を見てみたいと思っていた。それは昨年末に「Goin' Home」という日本国憲法を扱った芝居を見てかなえられた。これがなかなか面白かったので、またの機会をうかがっていたら、今回は北村演出ではないが、俳優館という劇団が「ゴーシュの夜の夜」という北村作品を取り上げると聞いて見に行くことにした。これも面白かった。二本見て分かったのは、彼の作品の特徴は思想劇とでも言おうか、たとえば「ゴーシュの夜の夜」なら宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」の作品解釈を、「Goin' Home」なら日本国憲法の解釈を役者の対話を通じて示していくという筋立てで、北村の思想なり内面なり(に思われるもの)がそのままで舞台に表象されるようになっている。

 「ゴーシュの夜の夜」では、女性作家の家に集まった当の作家と映画監督と雑誌編集者が、「セロ弾きのゴーシュ」の登場人物と、最後には「観客」や「読者」とも対話をしながら、この作品を解釈を仕上げていく。それによれば、あの童話では、映画的な手法が用いられている。冒頭と最後のオーケストラのシーンはなんとゴーシュの幻想だという。ゴーシュのもとに毎夜動物たちがおとずれるのだが、その過程でゴーシュは訪れる動物たちを受け入れられるようになっていく。このゴーシュとは賢治のことだろう。とすれば? もっとも、作品のなかには、各方面へ向けた当てこすりその他があって、それがときにはいささかうざったく、北村想って相当屈折した人物なんだろうなと感じずにはいられないところもある。 とはいえ、推理小説を読むような展開はとても面白かった。

 もっとも、面白かった反面、前日に見た芝居と比べていたのもまた事実だ。見ながら、ついつい「この舞台のどこに肉体があるんだろう」と考えていた。たしかに、ここでは演劇が上演されており、役者がその場にいて言葉を発している。だが、役者の口をとおして出てくるのは、北村想の思想らしきものだ。つまり、役者が北村の思惟が通過していく透明な媒体のように感じられるのだ。もちろん、メタ芝居的な要素もあって、その場で上演されているということ自体がストーリーに織り込まれていくのだが、だが、それも結局は、そこで演劇が上演されるという確信のうえに成り立つくすぐりのように見える。

 だが、他方で、当たり前のことだが、役者はそこにおり、言葉を発している。この肉体がそこにあり、言葉を発しているということそれ自体は、この上演のなかで、抑圧されているというか、あまり見えなくなっているような気がする。なぜ、こんなことを言いたくなるのかというと、その前日は、鈴木忠志演出で『別冊 別役実』と『廃車長屋の異人さん』を見てきたのだった。3年くらい前、思いつきで見に行って、それから鈴木の舞台にはまり、その後は機会があればちょくちょく彼の作品を見ていた。最近、地域の劇場でアーティストを舞台監督に呼んで作品等を作っていくという試みが進んでいるが、鈴木忠志の場合は静岡芸術劇場の芸術総監督をやっていて、それをこの3月に退任する。これはそのお別れ公演の一貫として行われたものだ。

 鈴木忠志は、鈴木メソッドという独特の俳優教育のシステムを編み出して役者を教育しており(いちどどんなものか体験してみたい!)、演出はもちろん役者の独特な演技に特徴がある。セリフは感情を込めて語るというよりはがなるように大声で言葉を発し、そこに独特の節回しがあって、そのリズム感が聞いていて心地よくなる。能や歌舞伎のそれを取り入れているというカラダの使い方も、独特でそれを見ているだけで楽しい。そんな感じで、鈴木の芝居を見ていると、そこで何かが上演されているということ以前に、そこに役者がいて言葉を発していることそのこと自体が圧倒的な力をもってこちらに迫ってくる。で、毎回それを感じたいがために行くようなものなのだが、そうしていると他の芝居がゆるく感じられてしまうところがあるのだ。

 もちろん、二つは別物だとわりきってしまえばどうってことはない。実際、鈴木の舞台を見ていると、それは演劇というよりは、モダン・ダンスを見ている感覚に近いものがあり、それが演劇としてかなり異質なものであるには違いない。また、舞台のアクチュアリティということでいえば、『廃車長屋の異人さん』でのゴーリキーの『どん底』と美空ひばりの組み合わせは、たしかに妙なるものだが、現代の『どん底』を考えるうえではどうなんだろう、というところもある*1。だが、リアルということであれば、鈴木の舞台ほどリアルな芝居もないように思える。北村の宮沢読解がもたらすリアルなもの、それをもう少し違ったかたちでも感じたいというのはないものねだりだったろうか?

*1:この点で気になるのは、最近小説も出して話題のチェルフィッシュ岡田利規の『エンジョイ』だ。杉田俊介『フリーターにとって「自由」とは何かを』をベースにしているというこの舞台、どんなものだったのだろう?杉田の本はフリーターによるフリーター論ということで一部では話題になっているのだが、ボクにはそれほどのものには思えなかった。というのも、彼が依拠している本を私もあらかた読んでいるせいか、それらを読んでも見えてこないなと感じられるものが、杉田の本を読めば見えてくるかというと、そういうことはなく、何かそれを気分で埋めているような感じがしたからだ。しかし、舞台にするというのであれば、ボクが感じ取れなかったような何かをそこに見出すことができるのかもしれない。そうならそれが何なのか是非知りたかったのだが---。