六ヶ所村ラプソディ

 東京じゃポレポレ中野でやっているけど、名古屋じゃ見られないのかなと思っていたら自主上映会があった。ともかく、オススメ、もっとも次はいつ見られるかわからないのだが。
 夏には、「Marines Go Home 辺野古・梅香里・矢臼別」という映画をみてきた。そして、基地反対闘争を続ける人々の姿をみて、それはそれなりに動かされるところがあったのだけれど、ひねくれ者の私は、こうした映画を見ながら、ついつい反対のことを考えてしまう。基地を受け入れて生きていこうとする人たちってどんな人たちなのだろう?金もうけしか考えない脂ぎったジジイなのか?
 基地は沖縄固有の問題といわれるわけだが、基地を受け入れる方から見ていくと、それが沖縄にかぎられない光景に見えてくる。そう、基地や原発のような迷惑施設を受け入れて、外から資金を導入しないことにはたちゆかない地方の実態だ。だとすれば、それでも住民投票をすれば受け入れ賛成派と反対派が伯仲することが、むしろスゴイことだと言っていいのではないか?迷惑施設の受け入れ拒否を決めたところで、それで問題が片づくわけではなく、むしろ、問題の始まりにしかならないのだから。しかも、それはいつまで続けられるものなのだろう?
 この映画を見に行くとき、そんな感じで、また反対運動に身を投じる人たちの姿が描き出される一方なのかしらん、と思っていたのだが、その期待はよい意味で裏切られた。六ヶ所村ではこの問題の決着はもうついている。核燃料再処理施設は今年にも稼働しようとしている。それに反対するのはほんの数名。この映画では、村内で反対運動を続ける菊川さん(開拓民の子なそうだがなぜかきれいな標準語を話す)、かつて反対運動を組織していた漁民、再処理施設とかかわる仕事を得て生きていこうとする人たち、周囲の町村で有機農業をしながら再処理施設の稼動に反対している人たち、おおよそこの4つのグループに分類できる人たちの語りをまじえながら、六ヶ所村の現在が描き出される。
 なかでも一番印象的だったのは、漁民のおじいちゃん、おばあちゃんたち。今から20年くらい前には漁民を中心に反対運動がかなり盛り上がっていたらしい。しかし、漁船の機械化に伴う人余りと、反対運動から身を引かなければ岡(原燃)で働けない実情が、漁民の運動をしぼませていく。おじいちゃんたちの寂しげに海を懐かしがる姿は、失われたものの深さを暗示する一方、おばあちゃんたちは貧しく仕事がきつかったと話す(出稼ぎの有無は土地の有無と関係したみたいだ)。そのなかで「あのとき、もっと外から手伝いに来てくれれば、いまのようにならなかったかもしれないのに」という言葉は印象的。もう遅いのだ。
 趨勢が決まった世界はどのようなものなのか?遅れてきて反対しているのは、村でチューリップを作っている菊川さんぐらい。そんな菊川さんは、反対のビラをまいて回っていたら、おみやげに烏賊をもらっていた。でも、烏賊をあげたおばあちゃんは、息子が帰ってきたらとか言いつつ、反対とも賛成とも言わない。
 他方で、働いたり、原燃から仕事を請け負って、建築会社やクリーニング屋をしている人たちの姿が描き出される。彼らは、「子どもたち、将来のことを考えて」という言葉を繰り返す。電気は不可欠だし、子どもたちも地元で働き生きていくためには、仕事がなければならない。
 そうなのだが、この手の施設を作ってから周囲で云々という話は、しばしばをよくきく話だ。この映画でも、再処理施設を作ったイギリスのまさにそうした事情が紹介され、原子力委の東大教授は推進する側でありながらインタビューで「あんな不気味なもの」呼ばわりする始末。
 ホントに、原燃の周囲で働く人たちに心配はないんだろうか?原燃で働く上野さんに仕事の話を聞きながら(映画ができた後彼のもとにマスコミが取材に押しかけたそうな)、彼は「一番怖いのは内部被爆だ」と言いつつ、話すなかで「でも内部被爆してる可能性はあるよね」と聞かれると言下に「それはない」と言い切る。それって---
 そんななか、地元の菊池さん以外にも周囲の市町村で反対の声をあげる人たちがいる。こうした人たちは、いずれも農家で有機栽培等に取り組んでいる。自分たちが作る農産物に対する意識も高いし、また、だからこそ再処理施設の影響も心配だ。
 そうした農家の一人苫米地さんは、買い手に向けて自分の作る米が再処理施設の影響を受けると公表してしまった。打ちあけずに売ってしまえば、自分も同じように汚染物質を巻いていることになってしまうからだ。当然、なかにはもう心配だから買えないという人もいる(でも、彼らの作ったトマトやお米をを喜んで買うような人たちは、また、高度消費社会の恩恵を目一杯受けている人たちであり、ある意味、影の再処理施設推進はなのかもしれないんだよね)。彼女は、こうも述べていた。最初は、自分は中立だと思っていたけれど、あるとき指摘されて考えを変えた。ここでは、中立ということは賛成ということと同じだ、と。実際には、作られてしまうのに自分は賛成はしなかったのだから、と言い繕っているだけにすぎない、と。 
 再処理工場を作るかぎり、たとえ微量ではあれ外へ放射能が漏れ出すことははっきりとしている。工場への不安はきっと誰にもあるに違いない。しかし、工場を背景に、描き出される模様は人それぞれだ。単純に片方をもちあげて、もう片方をくさすというようなことはできない。みんなそこで生きていこうとしているのだから。
 終わった後、監督の鎌仲さんの話のなかで、「六ヶ所村の人たちには、原燃に都合のわるい情報は流れないし」、「もう反対という選択肢はない」。「でも、わたしたちには---」。その気になれば、われわれは国の原子力政策に反対し、再処理工場を止めることができる。そのことにはみんな気づいた方がいい。しかし、六ヶ所村のことを知らないのは、地元もわれわれも同じだ。そのうえ、工場の停止は問題の始まりにすぎないだろう。原発をなくせば、あるいは基地や安保をなくせば、それで済むかといえば、それだけではすまないのが、この問題の根深さだ。ため息をつきながら会場をあとにした。

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予告編は
 http://www.youtube.com/watch?v=ZvoFPfFrV0w

六ヶ所村ラプソディー [DVD]

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