ウムハイムリッヒなもの:大竹伸朗全景 東京都現代美術館

 今回は東京で研究会があり、とある書籍の合評会のコメンテーターを頼まれてお仕事をしてきたのだけれど、翌日はこの機会にといくつか美術館その他を回ることにした。考えてみれば、9月末に奈良美智に行って以来だ。というわけで、ちょっと楽しみ。最初に行ってみたのは、東京都現代美術館大竹伸朗全景。前日の酒席で友人に感想を求めたら、まず口をついてでてきた言葉は「とにかくスゴイ」だった。そして、行ってみた私の最初の感想も「とにかくスゴイ」だった。
 現代美術館で特設展が開かれるとき、大抵はフロアを二つ使うことが多い。で、ワンフロア見ると結構くたびれて、そこで気合いをいれなおしてもうワンフロアを見るのだが、今回の大竹の場合、なんと4フロア(まあ、実質は3フロアでしょうけど)が使われている。で、最初のワンフロアを見たところで、1時間くらいたっていた。え、まだ半分も片づいてないの?美術館に行って(映画を見ているわけではないのに)「長い」と思ったのは生まれてはじめてだ。結局、友人に言われたとおり、見て回るのに優に2時間はかかった。たいてい、私は展示って2周するのだが(2周目は、全体の配列のなかで個別の作品を見ることができるので、1度目と印象が変わってくることが多いから)、今回だけは1周でやめておくことにした。くたびれたし。
 このすごさは4フロアを使っているということだけではない。展示は子ども時代の絵や作文から、近年の作品にまで及び、しかも、少なからずは作品を一点一点ならべるというよりは、いくつもの作品がどさっと置かれているといった具合で、言ってみれば、作品を個別に見ているというよりは、コレクションを見せられているような感じになる。ところで、この作品基本的に全部個人蔵みたいなんだけど、いったいどこに保管してあるんだろう? そして、大竹の作品を見る上でこのコレクションというのが一個の鍵になるように思えた。
 コレクションというのは、要するに集めた物の集積なわけだが、ある一定の観点や趣味から集められた物の集積は単に物の集まりというだけでなく、それを集めた人間の嗜好や性格等を映し出してしまうようなところがあって、ある種の気持ち悪さを覚えてしまうところがある。テレビの「お宝鑑定団」(だっけ?)を見ていても、そんな気がすることはなかったろうか?以前、ジャック・デリダのドキュメンタリーを見ていたら、デリダは物が捨てられない人で、あらゆる物が倉庫に残されており、それが何かとてもデリダという人を物語っているように思えたものだ。しかも、大抵の人は子ども時代に、牛乳キャップ集めとか、必ずなにかのコレクションにはまった経験があるはずで、つまりは、自分にも思い当たるふしがある。そんなわけで、コレクションを見るということは、そのコレクターの内面をのぞく一方で、自分自身の内面がのぞかれるような、面白さと気持ち悪さがある。大竹の作品を見ると、それと同じように面白さと気持ち悪さを感じさせられることになる。もっとも、大竹の「コレクション」の与える気持ち悪さはそのうえをいくものだが。
 それを何よりも感じさせるのは、展示の冒頭に来るスクラップ・ブックだろう。マッチのラベルを貼ることから始めたというスクラップ・ブックには、とりわけ性的なイメージを連想させる切り抜きを中心にサブ・カル系の様々な切り抜きが張り付けられており、それに透明感のないくすんだ黒褐色が塗られているものが多い。スクラップに貼られた様々な切り抜きは面白さを感じさせる一方で何よりも気持ち悪い(ちなみに、私はアート作品がカタルシスを与えなければならないなどとは思っていないので、これはけなしているわけではありません。念のため)。この気持ち悪さを、何と言えばいいだろうか?たとえば、昆虫的、エイリアンみたいとでも言おうか。昆虫やエイリアンって、黒褐色で、硬質的なのだが、他方で、精液のような半透明のねちょねちょしたイメージがある。しかも、軟体系の幼虫から硬質系の成虫になる。あの気持ち悪さだ。
 あるいは、知っている人にはわかるはずの、みうらじゅんのスクラップ・ブックとか、70年代的なビニール本とかピンク映画に近いイメージ、かつてならエログロと言われたあれである。これって、美術館に展示されているからこそ見ていられるようなものの、たとえば、性犯罪者や犯罪をおかした少年の部屋から発見されたとしたら、それこそ、猟奇的とかゆがんでるとか非難されるに違いない、そのようなヤバイ代物だ。そんなわけなので、みんな面白がっている感じだったし、子連れが多かったのだが、それも、なぜか、片親は青い目をしているというパターンが多かったのだが、「ホントに気にならないの?」という感じの世界が繰り広げられている。
 この色調、この気持ち悪さは、彼の青年期の作品に顕著に見られるし、その後も、そうした傾向の作品が目白押しだ。というか、この人放っておくと、こっちへ流れていくのねと思わずにはいられない。たとえば、それは、一連の「網膜」作品とかアメリカで見た壁をモチーフにした作品などにもいささかかたちを変えて見て取れる。他方で、面白いのは、彼がアフリカに取材した作品は、対照的に、あかるい色調で描かれた作品が多いということだ(ニーチェにとっての地中海のようなものなのか)。ところが、それが「日本景」に転用されるとぐっと印象が変わる(後述)。こうした暗さややばさは、むしろ日本的なもの、そしてアメリカ的なものに結びついているようだ。どういうことだろうか?
 思うに、「日本的なもの」というのは、エログロにしろ、サブカル的なものにしろ、どこかで「アメリカ」とつながっているようだ。それを、一連の展示で一番感じさせたのは、どこかのバーを模したような「ニュー・シャネル」と書かれた扉だ。場末のバーやクラブって、極めて「日本的」「演歌的」な感じがするのだが、なぜかそのネーミングはきわめてアメリカンだったりする。それは、ラブ・ホテルやパチンコ屋のネーミングなんかでもそうだ。しかも、そこにこれまたなぜか自由の女神があったりして、この展示にもそうした「自由の女神」が飾られている。考えてみれば、こうしたイメージの源流にあたるであろう、戦後日本のカストリ雑誌みたいなアングラな性の解放は、アメリカの占領下で進行したわけだ。「日本」の陰部はどこかでアメリカとつながっているらしい。
 こうして大竹(に限らないようであろう)の内面から通底していく日本の陰部が、そのアメリカとの結びつきを暴かれながら、露わにされる。それは、年を経るごとにより方法的で攻撃的になっていくように感じられる。たとえば、他にも、「日本景」という一連の作品では、ありきたりな日本の風景がチープなネオンのように原色で描かれ、また、別の作品ではやはりこてこての日本的な風景の上に、森進一や青江ミナといったいかにもの演歌歌手のイメージが重なられている。大竹がとりだしてくる「日本」は極めて卑近なところに転がっており、それが露悪的に取り出されてくる。これを攻撃的と言わずして何を攻撃的と言おうか。
 ここまで書いてきて、ふと島尾敏雄のことを思い出した。島尾敏雄は、私小説作家として『死の棘』のような作品を残しているが、しばしば、評されるように、そして彼自身が述べていたように、その作品は私小説でありながら私小説的世界を突き抜けていくような凄みがある。それと同じように、スケッチ・ブック、次には、なんでこんなものをと思わせる彼の少年時代に残した作品の展示から始まっていく、この一連の展示は、そうした大竹の極めてプライベートな場所でのこだわりが、次々と膨らんでいくなかで、それ自体を突き抜けていく、そうした運動を取り出しているように思えてきた。