奈良美智+graf A to Z

 学期も始まっているというのに大慌てで奈良美智 with Graf A to Zへ行ってきた。せっかく弘前へ行くのだから市内をゆっくり回りたかったし、青森の友人に会えたりするとよかったのが、今回は断念。また、夜行で入って飛行機で出るという行程を組んだので(というかそれが一番効率的だったのだ)、A to Zを見てから青森県立美術館へ(それも一日のうちに)回ることにしたのだが、これも順番は逆の方がよかった。青森県立美術館にも、話題の「あおもり犬」をはじめ奈良の作品を展示した部屋があるのだが、なんか尻つぼみな感じがしたのだ。というのも、展示の数も違うし、展示形態も違う。ただし、青森県立美術館自体は、地元の作家に傾斜しながらモダン・アートまで意識した展示は十分楽しめたということは断っておこう。
 奈良の作品は、以前にも、横浜美術館奈良美智展が開催されたときにまとまって見ているが、今回、A to Zで見たのとはかなり印象が違った。やはり、美術館という空間に陳列された作品は、それぞれが単体としてそこに置かれているという印象を免れないところがあり、配置された作品が構成する有機的な意味連関を感じとりにくい。その点、酒造の倉庫を利用したA to Zでは、個々のインスタレーションのみならず、Grafが作った小屋も含めて空間全体がいわば一個の作品となっており、そのなかを動き回るだけで愉しいし、それだけ奈良(だけではないのだが)の作品を堪能することもできた。
 奈良の作品というと、例の一連のむすっとした表情のちょっとひねた感じの女の子の作品がよく知られている。たしかに、ご機嫌斜めの姪(3才)はあんな感じの顔をしているように思えるし、その年頃の女の子の表情をよく捉えていて、それがまたかわいらしいといえばそうなのだが、たとえば、そうした作品と、ロック・ミュージックを中心としたサブカルチャーのイメージが併置されていたりするのをみると、もう少し違ったことも考えてみたくなってくる。
 奈良が描く女の子のイメージをいくつかに分類すれば、
1,件のむすっとした表情、の他に、
2,目をつぶった、そして、こちらは穏やかな表情をした女の子や動物のような着ぐるみをまとう女の子(?)、さらに
3,目をぱっちりあけた少女の姿がある。
むすっとした女の子1はなにかこっちへ訴えかけるような表情をしており、他方、目をつぶった女の子2はおだやか、目をぱっちりあけた女の子3は視線がこちらへぶつかって来ない。ちょっと心ここにあらずといった感じがある。
 たとえば、あるインスタレーションでは、壁の片方には目をあけた女の子が茶色の水に浸かっている絵が掛かっており、反対側の壁には、目を閉じてきれいな水に浸かっている絵が掛けられ、二つの壁をつなぐあいだの壁にはむすっとした表情の女の子の絵が掛かっている(つまり、2と3が向き合ってそのあいだに1がある)。このインスタレーションは、こんな風に受け取りたくなる。目を開ければ自分の生きる世界は泥にまみれた世界だけれども、目を閉じれば自分の生きる世界も美しくなる、と。そして、この両者を見すえた現実にあって、どのような顔をすればよいのかといえば、それは真ん中にあるむすったした表情だ、と。してみると、あの特徴的な表情は、自分が生きる世界にたいする徹底的な違和感の表明なのだといってよい。
 そう受け取ると、ロック・サブカルチャーとの併置もよく馴染む。ある部屋には、ロックのレコード・ジャケットが一面に張り付けられていたが、そこにあるのは60年代後半から70年代初頭ロックの創成期の作品であったり、70年代末のパンクのレコードなどだ(なかでも奈良はラモーンズがお好きなようだ)。ところで、革新的な表現としてロックが表明していたものは何だったろうか?たとえば、60年代末のロックがヒッピー・カルチャーに融合していたのを思い出せばすぐに分かるように、それは、世界に対する違和感の表明だ。いわばあの少女はサブカルチャーの落とし子なのだ。そして、われわれも。
 では、そうした世界を前にして何ができるのか?もし何も世界を変えられないのだとすれば。このとき、外界との不調和を調停するために非力な少女に与えられている手だてがなにかあるとすれば、それは外界を見ないこと、外界を拒絶することだろう。他のインスタレーションでは、たとえば、暗い部屋のなかに一枚の絵が掛けられており、そこには目を閉じた女の子がいて、その周囲では星がキラキラと光っている。つまり、目を閉じることで星は輝く。また、先述したように、A to Zでしばしば引かれるイメージにある、ぱっちりと開かれた瞳は外界の世界に向けて焦点が結ばない。われわれの眼前に広がる世界を見ようとはしていないのだ。
 あるいは、これもよく知られたイメージだと思うが、片方の目には眼帯らしき×が貼られて、もう片方の目はつぶっている、穏やかな表情をした人形がある。つまり、外界を見る眼はつぶされ、閉じた目でもって穏やかな世界を生きている。さらには、もう片方の目がぱっちりと開きながらも外界に焦点を結ばないタイプの絵もある。そんな感じで、いくつものインスタレーションを回りながら、私は奈良の作品からまさに世界にたいする違和感の表明、あるいは世界(から)の拒絶を感じた。しかも、grafのこぢんまりとした小屋のもたらすプライヴェートな感覚によってそれが増幅される。これは、以前言及したオノヨーコの作品と対極に位置するものだと言ってもよいだろう。そして、おそらく、こうした違和感は、現代にあってわれわれの誰もが日常を生きるなかで感じざるをえないものなのである。
 他方、こうした違和感は、奈良の作品にあっては、少女の姿を借りて表明されるかわいらしいイメージだ。そして、少女の憮然とした表情は決して世界を揺るがすことなどないだろうし(言い過ぎか?)、その姿を見るわれわれとのあいだに不調和を引き起こすこともない。むしろ、そこには見出され求められているのは、なごみだったりや癒しだったりするようだ。いわば、われわれは奈良の作品の前で目をつむっている。してみれば、目をつむることで調和的なヴィジョンが得られる我々の姿とは、世界にたいして小さな違和感を表明しているあの少女たちと変わるところはないだろう。そう、われわれは奈良の作品をまえにして自画像を見ているのである。