天皇という球体

 上映期間が延長になったおかげで、一度は行けないかと思っていた「太陽」を見てきた。昭和天皇を主人公とし、昭和天皇イッセー尾形が演じたことで話題になったアレクサンドル・ソクーロフの監督作品である。ソクーロフの作品を見ながら、その独特の映像世界(防空壕らしき入り組んだ空間での天皇の「一人暮らし」や廃墟と化した東京、御前会議にならぶ顔)を論じないのはバランスのとれた評とは言えないだろうが、ここでは中身について論じてみたい。

 この映画について、天皇を好意的かつ人間的に描いているという評がおおよそ行きわたっているようである。たしかに、昭和天皇がすべての責任を負うと語り、自ら人間宣言を決断するあたりは、ダワーの本なんかとかかなり食い違っているので、それこそ天皇の「御聖断」というイメージを繰り返しているように見えなくもない。とはいえ、そんな単純な話なんかいなという思いもぬぐえない。

 映画のなかで描き出されるのは、何よりも天皇の生活の遊戯性だ。どうみたって同じ人間としか見えない天皇が、神として生きなければならないとすれば、それはどうしても神=天皇を演ずること(=遊戯)と天皇であることの区別を曖昧にしてしまう。実際、天皇が侍従たちに「自分は人間だ」と戯れて見せるシーンがあるし、マッカーサーには「子供みたいだ、誰かに似ている」とつぶやかせ、写真を撮りにきた米兵たちには「チャーリー(・チャップリン)」と呼ばれる。あるいは、一人で自分のアルバムをめくるシーンでは、次にもう一つのアルバムが取り出され、そこにはチャーリーはもちろんハリウッドのスターたちの顔が並んでいる。しかも、イッセー尾形がなぞってみせる仕草は、コミカルで笑いを誘うところがあり、天皇という生活の演技性/遊戯性をうまく取り出している。

 こうした天皇の遊戯性は、天皇が基本的にモノローグの人であるということにつながってくるだろう。天皇は決して人と対向的な関係に入らない。つまり、誰かに話しかけられてそれに答えるという具合に、言葉のキャッチボールの関係に入らない。なぜか。天皇とは不動の動者であり、他人から動かされることなく自ら動く。他人の呼びかけに答えれば、自分が他人に動かされることになるし、自らの言葉を他人が受け取ればそこには責任が生じ、他者と自分のあいだに拘束的な関係が生じる。だから、御前会議で降伏の決断をするにあたっても、それをストレートに述べることはせず明治天皇の歌を引用する。マッカーサーに重要な案件について問いかけを受けても話をそらし、あとから一人でつぶやく。自分の思いは、海洋生物の研究の時間、眺めているカニに託される。

 いわば天皇とは一個の球体であり、誰もそのなかに入ってくることはできない。天皇からみれば起こることはすべて傍観者的遊戯的に見える。たとえば、陸軍大臣とおぼしき人物が熱く語る姿も、天皇に重ねられるカメラを通してみると、自分とは無縁のお笑いみたいな風景に見えてくる。あるいは、マッカーサーと英語で話すときは、自分のことを「エンペラー」と他人事みたいに話すのだ。自分の周囲で起こる一切はどこまでもお芝居、お遊びでありそうした遊戯のような生活が延々と続いてくる。

 それに見合うように、この映画では天皇の生活はどこまでも連続的で切断がない。この映画は、天皇の私生活に準拠し、空襲下、防空壕に作られたらしい天皇の部屋とほかの幾つかの部屋を往復する生活が描かれるのだが、そこには何も大きな変化は起こらない。つまり、そこに決定的な断絶が持ち込まれることはない(最後に、皇后が戻って子供に会いに行くところをのぞけば)。御前会議のあと、空襲の夢(?)を見るとはいえ、何が描かれるわけでもなく部屋の外には米兵が来ている。一人で人間宣言をすることに決めると、その決断がどうなるということも描かれないまま、ワンカットで部屋に皇后が戻ってきて、もう宣言が発布されていることがわかる。映画のなかで、時間は何かが起こったようで起こらないかのように進んでいき、天皇の主観的な経験世界を超えることはない。いわば「無時間的」に時間が経過する。

 だから、何かというと引き合いにされる終戦の決断や人間宣言も、ここでは空襲の悪夢(翼のついた魚が爆弾を落とすアニメは「ハウルの動く城」みだいだ)や神として生きることの窮屈さと結びつけられながらも、他方で、夢のような無時間的な経過のなかにおかれた遊戯の一コマのようだ。この映画のなかで、こうした天皇という他者なき球体のなかにきしみが走ることをうかがわせる瞬間があるとすれば、マッカーサー訪問時に車が廃墟のなかを走る瞬間(しかし、この廃墟がまた美しい)やマッカーサーヒトラーのことを「君の友人」と言われるときぐらいのものではないか?

 だとすれば、天皇という球体のなかでの「決断」にどれほどの意味があるのだろうか?それも一つのお遊びではないのか、と思えてくる(それとも、人間宣言は球体の外側に出ようとする意志の表明なのだろうか?)。「御聖断」といったことが言われるとき、われわれは決断にあたった天皇に過剰な内面を読み込んで、その意志を理解しようとしている。しかし、天皇の生活が、ソクーロフの描くような球体のなかで営まれるとするならば、「御聖断」が下される場所には何かがあるようでいて何もない。そこに何かを見出そうとするときに見出されるのは、「空虚な中心」に読み込まれた「われわれの欲望」にすぎないと言うべきだろう。誰も考えてみなかった天皇の生活、それをこの映像、この演技は思考することができているのではないだろうか?