路上の力

  デモや集会は個人に自由として認められた権利だ。しかし、たとえば、街宣集会で新宿伊勢丹前の歩行者天国が埋まってしまうというような事態が起こると単に個々人が権利を行使しているというだけではすまないような解放感を感じる。ここは束の間のわれわれだけの空間、解放区なのである。
 もし、デモを排除しようとすれば暴力が必要になる。国会前の警備がどんどん強化されていったのを見てみればいい。まず、空間を占拠させまいとしている。つまり、権力はデモをおそれているのだ。
 デモの空間から立ち上がってくる声は、選挙の票のような形式化された意見として発露されてくるようなものではない。まず、声をあげる人々がそろって生身をさらすことになる。とても、具体的だ。そして、選挙のような形式化された抽象的な枠に回収されてしまう前の前の原初的な要求のようなものが発露されてくる。
 それが一方的に動員されたものではなく、各人が自発的に集まって来て声をあげるとき、その機会は個人に権利として保障されたものであり、非暴力に貫かれているが、法的な権利の枠に収まりきれるのかどうかわからない、カオスというか潜在力をひめているように思える。 
 もう一度、繰り返そう。なぜ、国会前の警護はますます厳しくなり、市民を車道から駆逐し、歩道に封じ込めようとしたのか?これだけの個が集まり、空間を占拠したとき、自分たちに敵対するとき、権力は何か得たいの知れないものをそこから感じ取るのではないか?普段、見ることのない民衆の力を感じるからではないか?
 いったい、ここから何が起き、何が生まれるのか?暴動?新しい社会秩序?あるいは、実際には何も起こらないかもしれない。分からない。ただ、そこにはおそらく潜在的な力が潜んでいるように感じられてくる。この力を多くの人が自覚するとき、社会は変わるかも知れない。なんかそんなことを実感した。
 

暴動

暴動

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

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