憲法講話

 むかし、いくらも古本屋に転がっていた宮沢俊義の新書を探し出し、あらためて読んでみようと思うような時代がくるとは思わなかったが。この部分をまずあらためて確認しておきたい。

憲法は、その保障する人権は、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の結果」だという。また、「国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」ともいう。人権は、それを得るために、そして、それを守るために「不断の努力」を惜しまない国民にのみ、現実に保障される。憲法の規定がどのようにりっぱにできていても、表現の自由の価値を知らず、そのための「不断の努力」を怠る国民にとっては、憲法の条文は「白い紙の上に書かれた黒い文字」にとどまるだろう」(19頁)。

 以前、靖国公式参拝内心の自由と結びつけてとりあげていた某紙の記事があったが、この記事を読んだとき「内心の自由」というものがまったく分かっていないと思った。内心の自由と信教の自由はまったく別の事柄だ。

「信仰帰依」はもっぱら心の中の問題であるが、外にむかって「礼拝・儀式・布教・演説」を行ったり、また、そのための結社を作り、「集会」を開くというような場合は、もとより「法律又は憲法上安寧秩序と維持する為の制限に」にしたがうべきである。どんな宗教も、「神明に捧持する為に法憲の外に立ち、国家に対する臣民の義務をのがるるの権利」を持つものではない。したがって、「内部における信教のの自由は完全」であって、なんの制限もうけないが、「外部における礼拝・布教の自由」は、「法律規則」による制限をうけるし、また、「臣民一般の義務」にしたがわなくてはならない」(26頁)。

 これは伊藤博文憲法義解』の注釈である。ここでははっきりと「内心の自由」と「信教の自由」が区別されている。そして、これにしたがうかぎり公人の靖国参拝が「信教の自由」と相容れないことが明治憲法からも言えてしまう、だからこそ、明治政権は神道を宗教と解釈するのを忌避してきた。
 これは自衛隊を意識した一節、

「うそ」が役に立つ場合は、たしかに、ある。しかし、「うそ」はどこまでも「うそ」」なのであり、法の解釈で「うそ」を使わないと、妥当な結論を得られないという場合は、法そのものが不完全にできているか、または、法の解釈方法が進歩するとともに、そういう場合は、だんだん少なくなるはずである」(32−3頁)。

 

憲法講話 (岩波新書)

憲法講話 (岩波新書)