Fury

 映画の日に映画を見にいくなんてなんて久々なんだろう。こういうときは、ふだん行きそうもない作品を見にいくことにしております。というわけで、ブラッド・ピットがこの時期にどんな戦争映画を撮ったのだろうと思って行ってみたのがこれ。もちろん、基本的には一台の戦車がどれだけ暴れまくるかという話で(しかし、米軍の戦車って圧倒的に独軍より性能悪かったんだね)、ある意味ではありがちなパターンのストーリーだし、エンターテイメントとしても楽しめるのかな。
 でも、しばらくまえに『大いなる幻影』を見た私にはどうしてもその記憶が重なるというか、やっぱり、この映画ってその後の映画のテーマ設定を大きく決めてしまっているのではないだろうかと(断言するためにはそれ以前の戦争映画も確認してみる必要があるが)あらためて思ってしまった次第。とにかく、ここでも定番として出てくるのは、兵士の間の友情と敵国の女との関係、これがきちんと反復されている。しかし、兵士の間の友情はなぜナショナリズムに通じなければならないのだろう?
 この映画でブラピ演じるところのドンはニヒリストだ。上官からどんな無謀な命令を受けても逆らうことなくそれに従う。そして、それで戦功をあげてきた。そしてドンをしたう部下を動かす原理はまさに戦友であることにあり、戦争の大義や戦争の実態はあまり重要ではない。新兵が仲間として迎えられていくのはまさにまともな感覚を殺していく過程だ。でも、みんなどこかでそうやって感覚を殺していくことにある種のひっかかりは覚えているようだ。
 ドンは最後に自分に下された無謀な命令をあくまでも実行しようとするとき、自分の無謀な判断に従うかどうか選択肢を部下に与えている。でも、どこかでそれが受け入れられるであろうことをあてにしている。そして、そんな部下の一人バイブルと呼ばれる男が聖書の一節を口にするとき、ドンがそれを途中から言葉をつぐ。聖書の言葉を口にするドンの姿はまさに究極のニヒリストではないだろうか。あるいは、あとから思えば、あの食事のシーンもそう言えるのかな。そういう意味では、敵国の女と情を通じる場面もパタンとは違ってたな。
 で、結末は---。Furyと名づけられたドンのタンクを真上から捉えたカメラがどんどん上昇していく。戦場のシーンから『プライヴェート・ライアン』なんかが思い出されるのかもしれないけど、主題的には「ハート・ロッカー」に似ていると思った。


Ost: Fury

Ost: Fury