大いなる幻影

 多分、高校生時分見ているけど、なぜ独仏の兵士がこんなに仲がいいんだろうぐらいしか記憶に残っていなかった。そのあとに完全版が発見されていたのですね。さて、今回たまたま見る機会に恵まれたのだが、さて、この映画どこから語ればいいのだろう。あまりにすごすぎて---。
 たしかに、いまみても感じるこの「気楽な」戦いはかつては存在したがいまでは存在しない「戦争の緩さ」の名残なのかもしれない。たとえば、『大脱走』と比較せよ(独軍の将校が交替させられるでしょ)。いずれにせよ、ここにあるのはある終わりと始まりなのだなと思う。
 このゆるさというかユマニテないしは戦争のルールは、なによりも総力戦の前の名残のように感じられる。というのも、同じフランス人将校でも、職業軍人ないしは貴族と庶民の間ではわかり合えない。ギャバンは同僚の職業軍人と親しく交わりながらもどうしても超えられない距離を感じている。むしろ、捕虜にした側のドイツ人将校がこのフランス人将校に終わりゆく者として友情を感じてしまう。要するに、この二人は貴族なのだ。
 この二人は流暢にフランス語をあやつり、肝心なときは英語で語るんだよね。そして、自らが滅びつつある存在であることを自覚している。一方で、別の収容所への移送が決まったギャバンが、途中まで作ってある脱走路の存在をを後から入る米兵に教えようとしても、ギャバンに英語が分からないのは象徴的だ。ここでは英語は貴族だけのことばだ。
 というわけで、この将校はジャン・ギャバンとはいくら親しくなっても友情は結べない。一方で、ギャバンともう一人のユダヤ人将校とのあいだには友情が芽生え、この将校は二人の脱走に手を貸し、自らの命を犠牲にする。この自己犠牲はギャバンたちには分からない。いや、そもそも庶民には自分たちがなぜ戦争にかり出されなければならないのかが分からない。第一次世界大戦は初めての総力戦だ。それまでなら、戦争は職業軍人、貴族たちの仕事だ。彼らには戦いで死ぬのは当たり前。
 しかし、時代は変わる。この映画では独仏問わずに新兵がかり出された様子がなんども描写される。そんななか、ドイツ人将校の生ぬるさに不満を覚える民間人出身のドイツの軍人がいる一方で、ギャバンユダヤ人との間には友情が芽生える。そして、ギャバンとドイツの未亡人とのあいだにも---。リンゴを囓ります。
 なんのために動員されるのかよく分からない戦争。でも、彼らの手にかかっている戦争。そこで、友情が持ち出されるのは以降の定番かもしれない。たとえば、『ブラック・ホーク・ダウン』を思い出したよ。でも、それはナショナリズムに包摂しきれない世界だよね。しかし、それで戦争は回る。それから敵兵に転ぶ女性も定番だよね。でも、なぜ理由のわからない戦争で一線を越えてはならないのだろう。この作品を見ると、第一次世界大戦が総力戦でありながら、まだ総力戦になりきれていない残滓のようなものをあえて取り出し(階級関係に注意せよ)、そこまでして戦うことの意味が何かを問いかけているように思えてくる。
 ことしは2014年。第一次世界大戦が始まってから100年がたつ。そういえば、最初にでてくるトピックは飛行機がらみだ。ところで、このときシュトロハイムはどこにいたの?
 

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