社会契約論

 いまどき社会契約論の本を、それも重田さんがだすというのがとても意外だったが、読んでいけば重田さんが打ち出して行きたい視点というのがあって、そうするとそれほど意外ではないのかもしれないと思う一方、いまや社会契約論について気軽に読める本はないからそういう意味でも貴重だなと思った。
 読み応えがあったのは、最初のホッブスの「約束の力」とルソーとロールズをつなげて読むところだろうか。ただ、ロールズホッブスはかなりかけはなれているようにも思えたけれど。
 この議論ではホッブスが提起したラディカルな問いをパーソンズにならって「ホッブス問題」と読んでいるのだが、個人的にはどうしてもここに違和感を覚えてしまう。パーソンズの「ホッブス問題」とは社会秩序はいかにして可能かという問いであり、このカント的な問いはジンメルにさかのぼることができる。他方で、ホッブスの議論は統治体がどうやって成立可能かというものだからだ。どうしても、この二つを連続的に考えることに違和感をおぼえてしまう。
 ここでは関係する書物をひもといている余裕はないので、素朴にこの本の主題となっている「約束」ということについて考えてみることにしたい。まず、約束できるためには約束がどういうものか知らなければならないし、われわれは誰とでも約束できるわけではないから(見知らぬ人といきなり約束を結ぶことはまずない)、約束を結ぶにあたってはすでに社会秩序が成立していなければならないように思える。
 次に、たとえ破られてしまうかもしれないにせよ、約束が結ばれれば約束が成立する。つまり、そこには秩序がある。だから、約束が守られる/守られないという二分法が成立する。そして、ホッブスの問いはここから始まるとこの議論をホッブスに重ねてみることにする。ホッブスの自然状態は、相手がどうでてくるか分からない世界である一方、相手の出方は限定されいる。約束をしたときには相手の出方は限定されているが、約束が破られた場合、その先がどうなるのか見えない。だから、社会契約ということになれば、ホッブスの問題構成は自然状態と社会状態のあいだを行き来しているように思える。
 さらに、約束する人について考えてみよう。約束する人は様々な利害や理由・動機から約束をとりかわすだろう。しかし、いったん取り交わされた約束はそうした個々人の利害を超えて個々人を拘束する。約束を履行することは個々人に還元されない共同の一般的な意志である。つまり、約束をかわすということは個別的なものから一般的なものを生み出すという意味において構成的であり、この一般的なものが個別的なものを拘束するという意味において統制的である。ちなみにこの二つをロールズはルールとして区別しており、それはカントに由来する。
 では、この二つをルソーの一般意志と全体意志に重ねてしまえばどうなるだろうか?約束の効力は一般意志に相当し、ホッブスが考えたように互いの利害が一致したから約束を結ぶというのは個別意志をかきあつめた全体意志だということになりそうである。そして、約束で個人は自らを拘束すると同時に、約束でできあがった全体からも拘束される。そして、約束という形式は誤り得ない。ここだけなら辻褄が合う。もちろん、こういったからといってルソーの一般意志のわけのわからなさを理解したことにはならない。
 しかし、ホッブスが約束でこだわっているのはどこまでいっても全体意志のレベルであって一般意志のレベルではない。一方で、一般意志とは約束の内実である。しかし、ルソーの話は約束という形式に重ねると理解できそうなところがある。というより、この約束された内容の一般性は約束という形式によって保障されている。そして、このとき約束という形式は所与であり、いってみれば別のところで担保されている。
 ということは約束という仕組みの成立を説明することなしには、あるいは約束の内実が約束という形式をただの約束にはしておけない実体をそなえていないと、一般意志は導出できないといってよいのではないか。そして、ロールズの原初状態からの選択は、この点でもはや約束を必要としないところまで個人が脱色される一方で、その内実も用意されている、そのような試みに思える。