棄権することの意味

 橋下氏の市長選の件でいろいろと議論されているので、これを機会に私見を整理し披露してみることにする。まず、私は投票しないことも権利の行使の一貫であり、投票しないことの意味はその都度の社会状況ないしは政治状況に相対的に決まると考えており、それが選挙後の政治状況に一定の意味を持つような社会状況ができあがることが望ましいと考えている。 そして、この点でメディアの機能は重要ではある。
 これに真っ先にぶつかってくるのが棄権すること(あるいは白票も)は権利の行使であろうとなかろうと「白紙委任」に他ならないとする立場である。選挙期間が始まる度にこの手の話が繰り返し出て来る(だが、今回はどうなのだろう?)。しかし、私はこの主張はほとんど無意味だと考える。というのも、あえてそうした政治状況を作り上げようとしないかぎり、棄権(あるいは白票)が省みられることなど実際にはほとんどないからだ。白紙委任だなどということはあえて主張する必要もない当たり前のことなのである。
 のみならず、私は棄権(あるいは白票)の意味を探らないことがかえって好ましくない政治状況を作り出しかねない積極的な理由があると考える。まず、その都度の選挙で投票率や獲得投票率が変化するにもかかわらず、これが政治状況に反映されないというのは奇妙である。
 次に、棄権は白紙委任であるという見解は、棄権の責任をすべて有権者に押しつけている。しかし、繰り返せば、棄権した有権者は押しつけられるまでもなく基本的にはその後の政治的決定を甘受することになる。他方、投票率や獲得投票率の如何にかかわらず、当選者が民意を体現していると自称するのはどれほど妥当性があるのだろうか? 当選したとはいえ、さしたる支持をとりつけられなかった政治家には何も責任がないのだろうか?
 たとえば、もし、当選者の獲得投票がそこらで署名運動すれば簡単に集められる程度の数字にすぎなくなればどんなことが起こるだろう?いくら合法的だとはいえ誰がそんなやつの言うことをまともに相手にする?つまり、まだまだいまの投票率が高すぎるから政治家が安穏としていられるのだと考えてみる余地は十分にある。
 さらに選挙制度の問題がある。首長選は単純多数で決まり、投票者の過半数を得なくても首長になれる。地方議会は中選挙区制なので、そもそも一定の代表性しかもたない。同様に、衆参選挙はいずれも代表性が低くても当選者が決まるようになっている(小選挙区制、比例区ドント方式)。しかも、投票者は候補者や政党の政策パッケージをまるごと支持して投票するとはかぎらない。 つまり、選挙はさして民意を反映しないのだ。現行の政治が政党を基本とすることを考えれば、選挙は各政党に一定の影響力を与える手段ぐらいにしかならないのである。
 というわけだから、当選者が民意を代表しているということ自体がかなり疑わしい。もともと多数決と民主主義はそれほど相性がよくはない。しかし、代表を決めようとすれば、他の方法も考えにくいというのが現実だ。ま、くじ引きで決めるというのもなくはないのだが---。あと、以前、山形浩生氏が書いていた「投票権を売ろう」という話もわたしはとても興味深いものだと思う*1
 そして、現実にも投票率が下がることを望んでいる候補者ないしは政党があり、ときたまそうした発言がメディアから漏れ聞こえてくることがある。しかし、候補者が自らの当選の正当性を示すためには本来なら高い投票率のもとで高い獲得投票率で当選するのが望ましいことは当たり前のはずだ。しかし、現実にはそうではない。だとすれば、当選者に投票率や獲得投票率の多寡をぶつけて、その正当性を吟味し、注文をつけていくことには一定の合理性があると言ってよい。
 現に、投票しないということが大きな政治的意味を持つ場合というのはいくらでも考えられる。喫緊の話で言えば、クリミアの政治状況がそれにあたる。最初からロシア系有利と考えられる状況のなかで、ロシアへの統合に反対するクリミア・タタール人が投票をボイコットすることには十分に合理的な理由がある。
 話を日本に持ってくるならば、橋下氏の大阪市長選は地方自治の二元代表制を否定するものであり、この選挙をまともに相手にしないことは十分に合理的な理由があると考える。日本の地方自治は二元代表制になっており、つまりは首長選と議会選それぞれ別のスタイルで地方自治体の代表が選出される。そもそも代表の選出方式は単一とは限らない。片方の暴走を防ぐという意味ではこれは合理的な制度だと言える。
 橋下氏の市長辞任ならびに大阪都構想を争点としようとするこの度の首長選は地方自治の二元代表制を否定しかねないものである。まず、議会少数派である与党の議案がとおらないなら、それは議会においてさらなる熟議を重ねるべきものである。しかし、橋下氏はそれを拒絶して自らが辞任する道を選んだ。ちなみに、この辞任は議会で同意を得られていない*2。しかも、自らが再選されることにより自らが主導する大阪都構想の実現が承認されたとことにしようとしている。つまり、地方自治の二元代表制を否定してかかっているのである。 簡単に言えばルール違反なのだ。
 もっとも、橋下氏がこれで高い投票率のもと圧倒的な票を獲得すればその「民意」を否定するのは難しくなる。だが、これでは地方自治の二元代表制をも否定するもとのなりかねない。国政であり地方自治であれ、何かを決めるのは一義的には議会である。もっとも、いずれにあっても議会の能力があまりにも---というのはある(この点で橋下氏の登場を私は一定評価している)。 しかし、これでは政策の実現のみならず現行の地方自治制度を否定するケースを作ってしまうことになる。
 だから、この選挙にあっては投票をボイコットすることには積極的な意味がある。また、橋下氏が当選するにしてもその獲得投票率の多寡が大きな意味をもつ。ただし、そのような意味があるということに有権者やメディアが気づく必要がある。 そして、このとき棄権(あるいは白票)は白紙委任だという見解はとても危うい。
 わたしはすべからく棄権を推奨するつもりはない。原則的には投票することが望ましいと考えている。しかし、他方で棄権はそれ自体その都度の社会ないし政治状況において意味があり、場合によっては棄権を推奨すること自体が意味をもつこともある。もちろん、棄権した意味が一意的に決まるとはかぎらないが、それを議論の俎上にのせること自体からも意味は生まれる。
 最初の指摘を繰り返せば「投票しないことも権利の行使の一貫であり、投票しないことの意味はその都度の社会状況ないしは政治状況に相対的に決まる」というわけである。 そもそも、政治家に影響を与える手段は投票だけではない。献金、陳情、署名運動、デモ等々いろいろある。そんななかに棄権の意味を考慮するような政治文化を組み込むことは積極的な意義があると考える。私としては橋下氏のこの度の市長選が棄権の意味を考えるとてもよい機会になることを期待している。
 

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