中世の風景(下)

 一日一冊新書をというのはどこまで続けられるだろう。てか、明日はもう無理かな。
まず、これは面白い。「音と法的な行為というのは、どうも密接に繋がっているような気がするんです」(16頁)。文字がなかった時代ならこれは当然そうなるだろう。そうすると、誰が鐘をならしてよいのかが問題になる。ふつうは非人だそうだが。それが文書化されていく過程で、文書そのものがなくなると困ったことになるという問題が(132頁)。そこで、「古き良き法」が引き合いにされる。
 千年王国は、南ヨーロッパの縁辺に一つの発生源を持つそうだが、12〜14世紀に生じたこの運動は、富の蓄積が進んだ時代に現れてきた否定的な考え方(たとえば、托鉢)で、「徳性」に類比できるものだということになりそうらしい(234頁)。
 「網野さんが大きく取り上げられたアジールもまた、このように自力救済が広く行われていたからこそ、中世にあれだけ大きな役割を果たしたのだと思うんです(164頁)。
 「ヨーロッパ中世もまた現在でも、自由というのは、ある特定の段階までは一定の保護された状態であって、一定の身分なり一定の特権なりを与えられたという意味での自由でしかない」(210頁)。「名誉ある人間」。そしてこれは「共同体住民が、領主らの侵奪に対して日常的に抵抗することによって、現れ出る自由なわけです」(201-2頁)。というわけで、自由と保護と抵抗権がセットになっている。
 さらに「特権としての自由から個人の自由への転換がみられる」(195頁)。つまり、名誉をもたなくても共同体から離れて独自に生きようとするかぎりで生じる自由。たとえば、放浪者。

中世の風景 下 (中公新書 613)

中世の風景 下 (中公新書 613)