ベイトソン考

 ベイトソンの有名な議論に対称的/非対称的という区別がある。そして、ベイトソンアルコール依存症のようなケースを論じるときに言及するのが対称的な関係である。つまり、アルコール依存症患者が出て来るような家庭では、たとえば、酒を我慢できない夫をなじる妻と自分は飲酒をコントロールできるという夫(ちなみに、私は完全にコントロールできる自信がありません)のあいだに互いに張り合う関係があり、そのいきつく先がアルコール依存症であると。
 このときのアルコール依存症の含意は、いま考えたいことと関係ないのでおくとして、注目してみたいのはこの対称的な関係である。なじる妻にせよそれにあらがう夫にせよ、初めはどうだったにせよ(つまり、ほんとに困った酒飲みであろうと妻の過剰反応であろうと)、つまるところは、お互いに相手の上に行こうとする下らないプライドで満たされているんだよな。言いかえるなら家庭内のヘゲモニー争い。って考えてみると、この話、対称性/非対称性という枠組みに限定されない、些細なところに自尊心をかけるプライドの問題としても考えられそうな気がするのだがどうなのだろう。
 この問題設定、例えば、アルコール依存症からDVに移行することができるように思う。DVって暴力を振るう側(たいてい男)に問題があると考えられがちだが(そして、それはそうだと思う。自分の思い通りにならないと怒る人っているし。だが、これは別に書いた)、酒を我慢できない夫をなじる妻は、言いかえれば人の嫌がることをする人である。そこで夫の嫌がることをする妻というのを想定してみよう(もちろん、逆も可である)。たとえば、病気から退院した夫を迎えに行った妻が、帰りがけに急にマックのハンバーガーが食べたいと言い出す。夫は退院したんだから、マックなんかよりもまともなものが食いたい(なんなら、私みたいにマックが嫌いということにしてもよい)。ここでそれを我慢する夫もいれば、嫌だという夫もいるだろう。いずれにせよ、夫が気の進まないのを見て妻は家は帰ることにするのだが、そこでは一応昼食が用意されている。しかし、それは夫の嫌いな料理であった。ここでも夫は我慢することもできれば怒ることもできる。妻に視点を移せば、妻は夫を試していることになる。アルコール依存症の例だってそう考えることができる。
 試された夫が、我慢すれば妻は夫を自分の思い通りに動かすことが出来ることになり、いわゆる非対称的な関係ができあがる。逆に、夫が、妻のあまりの無神経さに怒り始めれば対称的な関係ができあがる。しかし、その場合も、妻の打った手に夫が反応することになるから、いずれの場合も妻は夫をコントロールできていることになる。もっとも、夫への支配を維持するためには、妻はいつも同じパターンを使わなければならず、結局、自分自身もしばられることになる。ヘーゲルの主と奴の弁証法みたいですな。
 いずれにせよ、こんなことが繰り返されれば、対称的な関係を選びがちな夫の方が我慢できなくなって手を出してもおかしくはあるまい。もちろん、手を出すことはよくないことだが、夫をコントロールしたがる妻の方に夫から暴力を引き出すきっかけを与えているという可能性が多分にあるケースというのはありうることだと思う。で、暴力をふるわれたとますます夫を非難し、自分は気の毒な妻を演じることになる。ここには別の悪循環があり、また違った張り合う関係がある。ま、世間的な勝負としては夫の負けですな。しかし、どちらがより悪に手を染めているかというと話は別になる。夫はただ怒っているだけなのに(でも、手をだしてはいけません)、妻はそれを利用して被害者を装っているからである(ちなみに、暴力の有無なんて二人のあいだのことだから、あろうとなかろうと妻はあったと言える)。
 いずれにせよ、経験的にも覚えがあるんだよな。もちろん、こんな商売やってるから相手の言うことに反論するのはデフォルトである。しかし、少なからずの人には覚えがあろうが(自分にも身に覚えがあるがそうならないようには気をつけている)、ときどき反論のための反論に流れていくケースってあって、多少ならともかくそれが繰り返されると、もう失礼しますって感じになる。ときには、言ってもいないことをこちらの意見として引き合いにして反論を始めるひともいる。これは、私の業界にかぎった話ではなく、他でもその手のつまらない見栄の張り合いってあると思うんだよね。当座のやりとりで勝ったって負けたってどうってことないと思うんだが、そうも行かない人もいるようで、そういう場合は、たいてい話がずれていく。で、だいたい何の話だったか分からなくなる。こちらは言いたいことを言ってしまったら、後は先方にお任せすることにしている。
 というわけで、対称的な関係と自己評価は低いのにプライドだけは高い人同士の張り合いとのあいだにはなんらかの親和性があるのではないかという思いつきでした。中身はどうでもよくて張り合うこと自体が目的になってしまうのだから。
 

精神の生態学

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