新版 夜と霧

 続けて、改訳版のフランクルの『夜の霧』。前の版とはだいぶ内容が違っているらしいということで。ナチの収容所生活をおくったフランクルは被収容者を「無期限の暫定的存在」と呼ぶ。「(暫定的な)ありようがいつ終わるか見通しがつかない人間は、目的をもって生きることができない。ふつうのありようの人間のように、未来をみすえて存在することができないのだ」(119頁)。「生きる目的を見いだせず、生きる内実を失い、生きていても何もならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばり抜く意味も失った人は痛ましいかぎりだった」(129頁)。「精神の崩壊現象が始まるのだ」(119頁)。フランクルは似たような例として長期にわたる失業をあげている。
 そこでフランクルは同じように問いかけることになる。「「生きていることにもうなんにも期待がもてない」こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう」。ここでフランクルは問いをひっくり返す。「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが私たちから何を期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えなければならない」と(129頁)。この問いの切り換えは、ヨブ記のそれに似ているように思う。というのも、問いが創造主のもとにあると切り換えられたように、フランクルもわれわれは与えられた生のなかにあることから始めようとするからだ。つまり、われわれが生きる世界にはすでに意味は与えられているのである。
 とはいえ、「人間として破綻した人」とか「性を意味深いものにする」ような高みについて語る一方、ムスリムについては言及されるだけ。また、当然のことながら強制収容所の外に出ても同じ問いは続く。「強制収容所の人間を精神的にしっかりさせるためには、未来の目的を見つめさせること、つまり、人生が自分を待っている、誰かが自分を待っていると、つねに思い出させることが重要だった。ところがどうだ。人によっては、自分を待つ者はもうひとりもいないことを思い知らなければならなかったのだーーー」(155頁)ともフランクルは書いている。意味があるからこそ、意味を与えられないものも生じうるように思うのだが。
 そして、「ふるさとにもどった人びとすべての経験は、あれほど苦悩したあとでは、もはやこの世には神よりほかに恐れるものはないという、高い代償であがなった感慨によって完成するのだ」と結ばれる。

夜と霧 新版

夜と霧 新版

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

 
こんな本もでておりますな。基本的に同じラインだと思う。
なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)

なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)