部屋から『ヨブ記』が出てきたので読んでみた。内容は多分、いろんなところで紹介されているが、旧約聖書のなかでも読みやすいし、もっとも面白く、それだけ考えさせるものを含んでいるものだと思う(ただし、わたしはそれほど聖書に明るくありません)。
ヨブは自らが生まれてきたことを呪うのだが、「滅びよ、わたしが生まれた日」(14頁)、これはいってみれば、なぜ私ばかりがこんな目に遭わなければならないのかという問いだ。同じ問題設定を現代に置き換えることは容易である。
たとえば、不治の病にあると分かった人が、なぜ自分がこんな病に罹ったのだろうと問いを発する、あるいは嘆く。せっかく健康にも注意してきたのに。健康診断も受けてきたのに。同い年のあの酒飲みはまだぴんぴんしているというのに。この人がどうしてそんな病になったのか、遺伝から初めてそのメカニズムを説明することはいくらでもできるかもしれない。しかし、その人はそれでも納得しないかもしれない。なぜなら、「なぜこの私が?」という問いにはそれは答えてくれはしないからだ。
たしかに、発病するメカニズムは分かった。しかし、発病するのがなぜ私でなければならなかったのか。自分には子どももいるし、まだやらなければならないこともある。いいかえるなら、説明できることはどこまでいってもHow?にたいする答えであり、われわれはWhy(me)?にたいする答えを導きだせない。だからこそ、また、そこに苦しみがある。「何故苦しむ者に光を賜い 心悩める者に生命を賜うのか」(16頁)。
ヨブは友人たちの弁論をしりぞけ、潔白の誓いをたてて神に挑戦する。そこに神が現れるのだが、神は決してヨブの問いには答えない。むしろそこで語られるのは創造主としての自らであり、ヨブをもその一つに位置づけることになる。ま、たしかにサタンの誘いにのることもできればのらないでいることもできるのは神ですな。
ヨブはこうした神の顕現を前に悔い改める。「わたしはあなたのことを耳で聞いていましたが 今やわたしの眼があなたを見たのです。それ故わたしは自分を否定し、塵灰の中で悔い改めます」(160-1頁)。しかし、これっていろいろな解釈を呼びそうだ。改心にあたってヨブが神を見たということ、結局悔い改めるのは、来世であろうこと。いまの私にはこれは生まれてこないのとどう違うのだろうと思ってしまうのだが、キリスト教世界では違うのだろうな。それはともかく、ということは、生きている間はこの思いから逃れられないということかもしれないこと。
- 作者: 関根正雄
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