約束、あるいは二つの村

 名張毒ブドウ酒事件を扱ったセミ・ドキュメンタリーこの事件がえん罪の可能性が極めて高いということは知る人は知っていることだと思う。映画としてもできはいまいちだと思う。でも、知らない人はやはり見ておいた方がいいと思う。死刑囚となり働く必要のなくなった奥西がそれでも働く姿はそれ自体が不当な判決に対する抵抗になっていると思う。このときの仲代の姿はよい。
 もっとも、私が興味深いと思ったのは、この映画の主題とはいささかずれているが、部落の構造についてである。わたしが、今回、一番、おどろいたというか、ひっかかったのは、奥西勝の「自白」にあわせて部落の人たちの証言が翻り、奥西以外に犯人がいないかのように、一連の出来事の時間が変わっていくことである。まあ、この人たちに聞いても証言がひっくり返りそうもないから、弁護団は、こちらよりも証拠や自白の真実性に目を向けていくのであるが、本来、いちばん奥西の無罪を明らかにできる場所がどこにあるかは分かってはいたはずだ。
 部落というのは、同じ場所に住み続け長期的な関係を続けていくことに特徴がある。大きな問題をおこせば、それが末代まで残る。五代も前の出来事がまだ根に持たれているなんてのはよくある話だ。つまり、部落の怨恨関係は長期的かつ複雑なものがあり、しかも、それを掘り返されればそれがまた怨恨関係のもとになる。そんなときに、奥西の不倫関係が犯罪の動機だということになれば、部落にいくつも埋め込まれている怨恨関係は表にでることなく、奥西一人を悪にすることで、穏便な関係を持続していくことができる。違うだろうか?
 かつて、部落にはなにか問題がおこったら差し出す要員が飼い殺しにされて、いざとなれば下手人としてさしだされる一方、その家族の先々は補償されたという。だが、この映画を見るかぎり、奥西の父母も息子娘もただの後ろ指をさされる存在になってしまった。私は、ここに二つの時代の交叉点をみることができるように思う。ここにはもう部落の犠牲者という発想はない。奥西の家はこの部落でどのような立場を占めていたのだろう。
 そして、それを裁くのは誰か、ベラーは農民倫理を抱えたものが都会へ出て行く、神島二郎も同じことを第二の村人と表現していた。そして、裁判所のヒエラルキーのなかで一度決めたことに逆らう者は大きなリスクを負う。再審を認めた二人はその後仕事をやめたそうな。
 そして、残念ながら、こうした話はあまり他人事とも思えない。結局のところ、誰かを人身御供に差し出して問題をなかったことにすること。この悪しき習慣はちっともなくなっていないと思う。ちなみに、現在、私も某所で悪者として追放されたようですが、こういうのってまともに表に出て来ないんだよね。わたしはいくらでも受けてたつのに。まあ、評価はともかく、あの集団から追放してもらえたのは幸いとも言えるな。
http://www.yakusoku-nabari.jp/

近代日本の精神構造

近代日本の精神構造

 
また、これと言われそうなので

昔、伊勢崎町ではサンドイッチマンはホームレスの仕事だったのに、いつのまにか店員らしき制服を着た男たちに代わってしまいました。せちがらいもんですな。あ、サントイッチマンを知らない。そりゃまた失礼いたしました(ってのも知らないでしょ)。ロイド眼鏡なんてますます分からないな。左耳をおさえるのは鶴田浩二の癖なのかしら。ついでに。どっちかの妹が当時のポールの彼女だ。