アウシュヴィッツの残りもの

 再訪。この本の記述がより身近なものとして読めるようになっていることを確認するために。

重要なのは、この二つを混同してはならないということ、法律が問題のすべてであろうとしてはならないということである。真実には法律とはかかわりのない内実があり、真実においては事実問題を法律問題に還元することはけっしてできない、生き残って証言する者の関心事は、まさに以下のものである。すなわち、人間によって行動を法律の向こうに導いていくすべてのもの、人間の行動を徹底的に裁判から解き放つすべてのものである(17頁)。

 少し考え直してみれば、法律の対象として、言いかえれば警察の介入の対象になる事実としては認定されない事実というのはいくらでもあるものである。たとえば、安全相談をしていたストーカー被害を訴えていた女性が殺された事件を思い起こしてみよう。人間にとって気になる事柄というのは、大きな事件よりも日々繰り返される些細なことである。そして、些細なことであればあるほど、人にまともに受け取ってもらえないし、誰から見ても「まとも」で「客観的な」事実としては扱われない。そこには、証言不可能というか証言が意味をなさない領域が取り残されている。

 そこは、上品なままでいることが上品ではなくなる場所、尊厳と自尊心を保持していると信じていた者たちがあっというまにそれを失った者たちよりも恥ずかしさを感じる場所なのである。

 つまり、いくら自らの尊厳と自尊心を持って自らの経験を語っても、誰もそれを相手にしてくれないのであれば、いくらそのようにふるまっても、それが意味をなさなくなる「非-場所」あるいは「穴」が存在するのだ。このあとアガンベンは尊厳の概念すらが法律に起源を持っていたということを確認する。つまり、その先があるのだ。ここでアガンベンがこう言っているのはとても興味深い。「尊厳が似つかわしくない場面と状況があることは、つねに知られてきた。この場面の一つは愛である」(89頁)。そう、児童虐待をはじめ、家庭で起こったことはその認定がきわめて難しい。

すなわち、ここでは、それ自身の受動性によって、それのもっとも固有の感受性によって凌駕され、乗り越えられる。しかし、自分のものではなくなり、脱主体化されたこの存在は、自己自尊のもとへの自我の極端で執拗な現前でもある。あたかも、わたしたちの意識がどこまでも崩れ、こぼれ出ていきながら、それと同時に、さからえない命令によって、自分の崩壊に、絶対的に自分のものでありながら自分のものでないものに、いやおうなく立ち会うよう呼びつけられているかのようである。すなわち、恥ずかしさにおいて、主体は自分自身の脱主体化という中身しかもっておらず、自分自身の破産、主体としての自分自身の喪失の証人となる。。主体化にして脱主体化という、この二重の運動が、恥ずかしさである(141-2頁)。

で、アガンベンはこの例としてサドマゾをあげてる。つまり、能動性と受動性が一致せざるをえない領域である。自分に制御できないものに自分を引き渡しながら、同時に自分がそれに直面したいと願っているのだ。「人間は人間の非-場所において、生物学的な生を生きている存在と言語のあいだの不在の結合において生起するのである」(183頁)。人間が自らの尊厳を否定しながらも、そうすることで自らの生を保ちかろうじて主体でいられる場所。そんなもの今の世の中、いくらも確認できるのではなかろうか?それを社会問題化していくことは、「われわれ」(自分以外誰か知らない)の課題だと信じる。あと、レヴィナスは「棲む」ということについて何を言ってたっけ。これ宿題。
 

アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人

アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人