終の信託

 草臥れてる草刈民代の雰囲気も悪くないが、それ以上に大沢たかおの検事役がよい。いかにもアタマが切れそうで、いかにもいやなヤツという感じがよく出ている。世の中いるよね。世の中で自分が一番アタマがいいと思っているし、露骨にそれを態度に表す人種が。考えようによっちゃ、この映画はそんな二人の、でも一方は余計なことに気づいてしまった人間の対決だ。
 基本的に、検事は自分の聞きたいことを聞き、相手のいうことを聞かない。相手に勝手にしゃべらせる一方、そこから自分の都合のよいことだけを選び出す。必要ならどなりつける。他方、相手はまともに相手と会話をしようとしている。この非対称性は明らかだ。相手に自分の思いや言動を理解させようと思っている人間と、そこから立件するのに必要なことを引き出したい人間が対決すれば、後者が圧倒的に有利に決まっている。そもそも相手の言うことを聞かずに、自分の都合のいいことだけ拾えばよいのだから。だから、この二人のあいだでは会話が成立しているようで成立していない。検事にとって会話の中身はどうでもよいのだ。そのなかから拾い上げたい言葉だけをさがして話を続けていく。
 検事が質問を組み立てる以上、話せることと話せないことは検事の質問の枠組みのなかで決めることができる。なんの想定もないまま話を聞いて、その発言から枠組みを作るなんて夢おとぎ話であろう。これは民事であろうと同じに違いない。それぞれの言い分を通すためには、相手のいうことをまともに聞いていてはならないのであり、互いに自分の側の言い分を固めてそれにそって議論をしていくに決まっている。だから、話はすれ違うというか、それぞれがそれぞれの立場から自分の主張を一方的に述べた行くだけ。そのなかから、うまく相手を挑発して都合のよい発言を拾い出せればもうけものという感じになるにちがいない。
 こう考えてみると、検察があらかじめストーリーを作り上げてそれにあわせて尋問して調書を作ると批判することはあまり意味がないように思える。聞く方だって、仮説を立てて尋問していく他はないからだ。容疑者を信じて質問は出来まい。つまり、取り調べは意識しようとしまいとどこかしら誘導尋問的な要素を帯びてくる。そして、ここで問題になるのは、むしろ尋ねる側と尋ねられる側の間にある非対称性だ。検察側は自分の聞きたいことだけ聞こうとしている。しかし、尋ねられる側は証人であれ、容疑者であれ、聞かれたことにふつうに答え、ふつうの会話をして自分の訴えたいことを伝えているつもりでいる。だから、思わぬところから思わぬ証言が抜かれる。
 この非対称性に気づかなければ、検事は意識しなくても犯罪をねつ造するし、容疑者は知らないうちに自白させられているということになりかねない。双方の間の語りのモードが違うということを問題にしないかぎり、ねつ造の問題は構造的に組み込まれているように思う。取り調べの可視化も重要だが、それ以上に法的な言語ゲームに通じた者とそうでない者の落差を埋める努力をしなければいけないのではないかな。そうすると、少なくとも双方に法的な言語ゲームに通じた者が必要なのであり、弁護士が同伴しない取り調べや事情聴取はそもそもそれ自体が犯罪ねつ造の温床であるということになる。