「人格」という形式

 順調に手直しがすすまないので、これをおさらいに読んでみる。今回は、翻訳ではなく、昔の自分の下手な試訳を使ってみる。頁も原書にあわせて打ってあるので、翻訳読んでも該当箇所は見つかりません。
 まず、「自己準拠/他者準拠という形式が心的システムの意識過程を制御する」が、人格はアイデンティフィケーションであり、いかなる固有のオペレーションのモードとも関連していない。つまり人格はシステムではないのである。古典古代の用法では、人格性によって問題になっていたのは社会的な相互作用の規制であった」(9頁)。
 で、形式概念をもちいて再構築するならば、「「人格」において特定の対象が理解されるべきなのではなく、二つの場所を伴う形式として観察を導く特定のタイプの区別が理解されるべきなのである。---。問題なのは何よりもこの形式のもう一つの場所がなんであるかを見つけだすことであり、この特定という点では人格は非人格でありうるが、だから人間ではないとか個人ではないということではない」(12頁)。
 「「人格」という形式が個人に帰属される行動の可能性の制約として特定されるならば、この目的が達成される。---。制約のための二つの理由、つまり由来と成果が個別に帰属される。強調はどちらかというと行動可能性の制約や形式にあり、つまりこの制約を通じて別の場所として、人格に属さないものとして何かがはっきりするというところにある」(13頁)。
 で、この問題がダブル・コンティンジェンシーの問題に結びつくというのは、ルーマンのダブル・コンティンジェンシー理解を考える場合よく分かるな。「ダブル・コンティンジェンシーが伴う状況では、それぞれの参加者が他人に対してとる態度は、他人がその参加者に対して満足のいくように行為することに依存しているので、可能性の幅を制約する強いられた必要が持続することになる。こうしたダブル・コンティンジェンシーという不安定で、循環的な苦境が、人格の発生を呼び起こすのである」(15頁)。
 「人格という扱いにくいコミュニケーションの存在様式は遅くとも17、18c以来道徳の問題になった。以前は、個人の身体的・心理的レパートリーの道徳的な規律という意味で、エートスのみ、落ちつきのみが求められたのに、いまや道徳的な要求は、コミュニケーションのパートナーである人格へのいたわりに移ってきた」(18頁)。これはゴッフマンですな、というかこの節の最後にゴッフマンを読めと書いてある。
 中世の身分社会が崩壊して、外見や身振りで単純に個人を判断することができなくなって、個人が信頼できるかどうかという問題が道徳化された人格(だけじゃないと思うけど)に移されてくるという理解でよいのかな*1
 で、最後に心的システムとの関係。心理システムは、人格という形式からさらなる区別を手に入れると。人格的にふるまうこともふるまわないこともできるとわかるわけだから。

Soziologische Aufklaerung 6: Die Soziologie und der Mensch (German Edition)

Soziologische Aufklaerung 6: Die Soziologie und der Mensch (German Edition)

ポストヒューマンの人間論―後期ルーマン論集

ポストヒューマンの人間論―後期ルーマン論集

しかし、これは後期の論文集なのだろうか?

*1:中世の身振りについては、とりあえずここで、http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20090518