John Barleycorn Must Die

 G・ベイトソンのAA論文のおさらい。あらためて読むと、この論文どうにも歯切れが悪いと思っていたのには、それなりの理由がありそうなのと同時に、自分がよく分かってなかった部分があるな。やはり、昔はダブル・バインドにこだわりすぎてた。出発点はここ。「つまり間違っているのは彼の〈醒め〉の方であり、〈酔い〉の方は、ある意味で”正しい”ということになる」(423頁)。
 依存者は飲酒行動に走るようなシステムに組み込まれている。ここには二つの帰責の可能性があるよね。つまり、一つは依存者を飲酒に走らせるような人間関係や社会がまともじゃない。もう一つは、依存者がまともじゃない。
 で、大抵「彼が生きるのは、まわりの人が、寄ってたかって「もっとしっかりしろ、自分をコントロールしろ」という自己制御のエピステモロジーを押しつけてくる環境なのだ(ちょっと身に覚えが---)。だとしたら、その、自己制御なるものの無効性を示すアルコール依存者の行動は、「正しい」ということにならないだろうか(そう思う)」(442頁、ただし括弧内はわたしのつぶやき)。
 依存者は自らに帰責してくるような現実ないしは架空の他者にたいして対称的(シンメトリック)な関係にたつ。飲酒はそうした人々に向けた抵抗なのだ。「事態の悪化につれて、依存者は、酒と一緒に自分の世界に閉じこもり、自分に向かってくるものすべてに対して、あらゆるかたちの反撃を示していく」(440頁)。
 そして、このように飲酒に走るときにだけこの格闘から退却することができる。「〈酔い〉に入ると”自己制御”は弱まり、それ以上に、自分を他人と引き比べなくてはいられなかった、対称性へのとらわれの心が、自分から抜けていく」。「こうして彼は相補型の、依存的関係に身をゆだねることになる」(444頁)。
 そこで、AAが「底つき」経験を介して依存者に自覚させようとしているのは、飲酒行動としてアクティング・アウトしてしまうのが他ならぬ依存者にとってきわめてまっとうな反応なのだということ。というのも、これは彼が組み込まれているシステムに由来するものだからであり、依存者に帰責されるべきことではないからだ(ここまでとても納得)。だから、自分の意志で酒をやめることはできない、と(ダブル・バインド!)。
 で、結局、自分のアルコールに対するコントロール不可能性を認識することでこのシステムの外に出て、より大きなシステム(AA)に身を任せ(匿名性)、同じような苦しみを味わっている人にAAのメッセージを届けるよう手を差し出すことでこの悪循環から抜けられる。つまり、飲酒行動に走るような社会そのものは手をつけないで、同じようにアルコール中毒に走る人に手を差し延べることで、どこまでも相補的な関係にとどまり、対称的な関係からは手を引くと。
 「アル中患者の犯した過ちが、「今日世界をその縫い目から引き裂きつつあるさまざまな力」と他なるものでないとしながらも、会の目的はただひとつ、「アルコールの中毒の苦しみにあって、それを必要としている人たちに、AAのメッセージを届けること」にあり、世界の救済はAAの関知することでないと、彼はうたったのである」(450頁)。
 でも、そうすると、やっぱり飲酒行動を止める能力が自分にはないという帰責が行われているわけで、問題なのはシステムだといいながらそのシステムを問題にできない、あえて問題にしないところにAAの特徴がある一方、そこにある種の居心地の悪さを覚える人間も出てくるわな(社会を変えるよりは、心を変えようとしてる)。それが、ベイトソンの議論にもあらわれているとみてよいのだろうか?
 ところで、考えてみたら、何かにつけてそれを人のせいにする人って時々いるよね(これって自他の境界が引けずに相手に依存してることになると思う)。そんな風にしてると、多分、その人の現実認識自体がゆがんでしまうと思うんだけど、そういう関係に巻き込まれると相手の方も現実認識ってゆがんでいくだろうな。
 

精神の生態学

精神の生態学

 
John Barleycorn Must Die

John Barleycorn Must Die

 

聞き比べ、

調べてみたらトラフィックだけじゃなく、フェアポートやスティーライ・スパン、ジェスロ・タル、さらにはジョー・ウォルシュまでカヴァーしていた。あとは、ジョン・レンボーンがやってますね。