グリコ・森永事件

 お昼に、春先、某国営放送でやったグリ森(1984-85)の再現ドラマ+ドキュメンタリーを見る。まず、なによりも見ながら出てくる登場人物たちに「男」を感じた(なにせ、まだまだ仕事は男の世界という時代だったわけですので)。しかし、その一方で、この事件を追いかけるなかで浮かび上がってくるのはその「男」たちが空回りしていく姿だ。自分の仕事に誇りと使命感を持ち、職務をまっとうすることが社会全体の善きことにつながるという信念を持ってはたらくことのできた幸福な時代が終わろうとしている*1。ここに一つの大きな転換点を読み込むことができるのだなと、いまさらだが、感じずにはいられない。
 無能の長物と化した公安が関与して現場の判断が尊重されない警察。他社に先駆けてスクープをとることが記者の名誉であり、社会に資するはずだったのに、そうした競争がただの過熱報道をあおることにしかならなくなっていく。メディアが、犯人に利用され、社会不安をあおり、そして、それを半ば面白がって見ている国民がいる。いま広がっている光景はこれの拡大版以外のなにものでもないだろう。

*1:これをテイラーの次のような指摘と結びつけて理解してもよいのだろうか?「私は、最初に「枠組」として記述したものを、私たちの道徳的反応に背景的前提を提供するものとして、のちには、それらの道徳的反応が意味をなすための文脈を提供するものとして提示した。その上で私が論じたのは、これらの枠組みの内部で生きることが、なしですますこともできる任意のオプションではなく、私たちのアイデンティティにとって不可欠な方向付けを提供するものだということである」93頁。