メディアは存在しない

 タイトルが気になり流して読んでみたけれど、基本的にはメディア決定論を批判する本ということでよいのですな。この点、特に異論がない*1。ハイテク・メディアのもとで起こるのとよく似たような事象が起きるもっと素朴な状況を想像してみるのはそれほど難しいことではない。
 「メディアとはつまり「コンテクストを与えるもの」にほかならず、コンテクストは精神分析的には、その存在を厳密には記述できない。すなわち、コンテクストは存在しない。念のために強調しておくが、「存在しない」という表現は、厳密に閉じた記述ができず、それゆえ語りの空間に定位されないことを意味しており、ただ「存在する」としてしか言えないがために存在しない、というほどの意味である」(27頁)というほどのことなら、「メディアは存在しない」と言われてもなんの抵抗もないな。
 そもそも、コンテクストはそれがそれとして意識されてしまえば、もはやコンテクストではなくそれ自体が別のコンテクストにおかれてしまうわけで、そういう意味でコンテクストはそれがコンテクストとして機能しているかぎり透明になっていなければならない。だから、(多分、まともに読んでいない)ルーマンの言う「メディア/形式」という「階層関係が見てとれるのは、伝達が何らかの機能不全に陥った場合に限られる、とすら言いうるだろう。言い換えるなら、スムーズな伝達が起きているとき、そこに階層はなく、それゆえ「メディアは存在しない」(192頁)のだと言われても、それはそうでしょうと。
 ただ、それを「精神分析的な立場から「シニフィアン/コンテクスト」の区分で」(192頁)とこだわらなくてもよいような。そもそも自然言語ってそういうものなのだし。たとえば、以下の興味深い指摘も、ルーマンならコミュニケーションと相互行為の差異ないしは、社会分化という観点から説明するんじゃないかな。「状況に参加しつつ、そこから過度に影響されることを避けるためには、その状況を精確に理解しているだけでは足りないのである。状況の外側に視点を置き、そこから状況を懐疑しつづけること。つまり、正気=懐疑を維持するためには、象徴的な同一化によって、単独の主体を、状況の外に確保しておく必要があるのだ」(23頁)。
 

メディアは存在しない

メディアは存在しない

 
(追記)そういえば、「ソフトウェアなど存在しない」というのもあったな。
ドラキュラの遺言―ソフトウェアなど存在しない

ドラキュラの遺言―ソフトウェアなど存在しない


 

*1:この点は、末尾の対談でも言及されてますが、いつのまにか文庫化して中身も変わっているらしいこの本でも