認知的不協和の理論

 ふと思う。もとの議論を検討できる状況にないので断定的な物言いは避けたいが、「認知的不協和の理論」って、少なくとも使いようによってはただの循環論法にしかならないのではなかろうか?そして、実験的状況以外で、この理論を検証できるような条件が整っている社会状況ってどんな事態が考えられるのだろう?
 たとえば、人が過ちを認めないのはよくあることだが、それは自分の信念に反する事態を受け入れるよりも、屁理屈をひねり出して自己正当化を図る方が、不協和を軽くするからだろうか?もちろん、他方で過ちを認める人もいる。この人は過ちを認めた方が不協和が軽くなるからそうしているのだろうか?また、誰かがそうした認知環境にあるという同定は、当の理論を適用することによってしか達成できないのではないだろうか?これだと認める人は認めて、認めない人は認めないと言っているに等しくなる。
 

認知的不協和の理論―社会心理学序説 (1965年)

認知的不協和の理論―社会心理学序説 (1965年)