ラカンを読む

 久々に読み返して思うに、やはりこの指摘は鋭いと思う。で、思うのだが同じことは鏡像段階についても言えないだろうか?鏡像段階を「鏡像段階」と言えるようになるためには、象徴的去勢を経る必要があるんじゃないだろうか?

 しかし実際には、問題の暴力的にばらばらにされた心像は、先行したものを再現的に表象するために、鏡像段階の後に初めてくるのである。鏡像段階に先行しているように見えるのは、単なる投射か、反射である。鏡の反対側には何もないのだ(100頁)。
 鏡像段階は決定的な瞬間である。そこからは自己だけでなく、「ばらばらの身体」も出てくる、この瞬間は、後続するものの起源であるだけでなく、それに先行するものの起源でもある。それは予期による未来と、遡及による過去を生み出す。しかもこの瞬間は、自己欺瞞の瞬間恵有り、幻想的心像にとらわれる瞬間でもある。未来と過去はいずれも幻想に根ざしている」「自己はその将来の姿を予期することを通して構成され、しかもその予期されたモデルは過去の姿をはかるために使われる(102頁)。

 

ラカンを読む (岩波モダンクラシックス)

ラカンを読む (岩波モダンクラシックス)