声の大きい者の意見がとおるとき

 カーンバーグは、ビオンを引きながら、「強力な退行が、構造化されていない小集団において発生し、そべてその構成員の相互的活発化によって、自我発達の早期の段階の全体的情動状態ときわめて類似した状態が引き起こされるかもしれない」と述べているのだが、
そのビオンによれば、(退行した)集団の基礎仮定として、①「人間は集団を維持する目的で集団として会合してくる」、②「集団は自己維持の方法として、闘争あるいは逃避という二つの技法だけを知っている」、③「集団が依存するある人物から安定を得ようとして会合する」の三つをあげており、三つ目の系として「多くの集団が、彼らを満足させる代理者を発見する。普通それは、偏執的な傾向をもった男性か女性である。おそらく、敵の存在は明らかでなものでないにしても、集団にとって次善の策は、彼にとって集団が敵であるようなリーダーを選ぶことである」(62頁)と指摘している。
会議などで、とりわけ誰もがあまり積極的にかかわりたくない事柄が議題に上るとき(つまり、闘争するか逃避したい議題)、明らかに無茶なことを言ってるのに声のでかい者の意見が通るってことがときとしてあるけど、あれって、もしかするとうえの説明にあてはまるような現象なのかしら。
誰かがその無理を正そうとすれば、責任を持った態度を採らなければならないが、集団が退行して個人が依存的になれば、そもそもそれが期待できないわけだし、仮にそのような人が現れたとしても、筋のとおらない話をしつようにくりかえされては理屈で押さえ込むのが難しい一方で(「無理が通れば道理引っ込む」とも言いますな)、他から支持をとりつけるのも難しいということになる。しかも、最初に確認されているように、「集団がまず第一であり、逃避では個人が捨てられる。最高の必要性は集団が生きのびることであり、個人ではない」(59頁)。どっちを犠牲にする方が楽かと言えば、これははっきりしておりますな。その結果、組織は悪循環的にひどいものになっていくでしょう。
 

集団精神療法の基礎 (1973年) (現代精神分析双書〈17〉)

集団精神療法の基礎 (1973年) (現代精神分析双書〈17〉)