死のアウェアネス理論と看護(承前)

思うに、これだけの議論がなされているのに規範やルールの適用といった話が主題化されることがほとんどないなー。医療スタッフ同士や患者は、それぞれが医者や看護婦(訳本に依拠してます)、患者であるかぎりで、規範的な関係に入っているわけで、それは病状の進展に応じて変化するだろう。とりわけ、患者自らが死ぬということを認識すれば(「オープン」認識)、それだけ人間らしくふるまうことが期待されるし、周囲はそれを尊重することが望まれてくる(これ、ある意味で『アサイラム』の話と似ている)。これは、通常の医者・看護婦、患者関係にはないものである(つまり、もう一つ違った関係にコミットすることになると思う)。で、そのあたりはどう記述されているかというと、

「自分は死ぬのだと知っている患者がそれをひとたび公にすれば、その最も重要な相互作用上の帰結は、彼は今や死にゆく人間として自らの行動に責任を負わなくてはならないということである」(84頁)。
「同様に、病院のスタッフについても、終末認識をもつ患者と相互作用に関してある種の行為基準があり、彼らも人間として、また専門家として適切に行動しなくてはならない」(85頁)。
「反対に、適切な死に方をしない患者は、スタッフにとって重大な相互作用上の問題となる。適切な死に導くために、スタッフは否応なく一連の戦術を用いざるをえない、そして、その戦術は部分的には、患者が自分のおかれた状況をどう理解するかに深く関係している」(93頁)。

とてもあっさり、そうするものだと書かれているように読める。つまりは、それは個人の「認識文脈」の問題ってことになるのかな。他者の態度取得という発想でいくと、規範の適用という発想はいらなくなる?

死のアウェアネス理論と看護―死の認識と終末期ケア

死のアウェアネス理論と看護―死の認識と終末期ケア

 自分の勉強不足をさらけだしているようなものだが、そのあたりを意識しながらこれも読んでみるべきだろうか?
慢性疾患を生きる―ケアとクオリティ・ライフの接点

慢性疾患を生きる―ケアとクオリティ・ライフの接点

 

CFWか*1。こういう議論があるのですね。http://disasterpolicy.com/shingoblg/?p=67

 

募金とヴォランティアについて。http://togetter.com/li/111700