『オルレアンのうわさ』

 いまごろになってこの著名な本を読む。うわさが広がっていく背景はこんな感じで説明されることになる。モランの本って、随分と訳が出続けているけれど、あんまり言及されているものを見たことがない。どれくらい読まれているのでしょうね。この本の考察とかいまでも通用すると思うけれど。
 うわさは誰よりも社会の変化を体現しているように見える若い女性の連続誘拐事件として組織され、それに反ユダヤ主義の尾ひれがついていく。しかも、この現代の神話に対抗できたものも、またもう一つの神話であった。当時(1969年)のオルレアンやアミアンのようなパリに近い中核都市では、市の中心部にある種の空白地帯が生じていており、

都市の中心部は、もう市民生活や文化の中心、都市に秩序を保たせ組織化していくもの、そこから、市政自体としての父親的な権威のもとに都市を保衛していくような権威を発散させる中心であることは、もはやできなくなっている。都市の中心部がいきいきとした活動の中心であることは変わりがないのだが、精神的・文化的なものが消え去ったあとの社会的・経済的な活動だけに開かれている中心なのだ。中心となる頭脳部分は空っぽで、精神やモラルといったことからみても、核がなく、背骨をぬかれたようになっているのである。もはやこれは、古典的な都市とはまるっきりちがったものだ(81-2頁)。

 こうした空白を埋めるのにマス・カルチャーやマス・メディアが果たす役割は、むしろ不安や空想を膨らませる方向にはたらく。

 この基礎の上で、政治的な諸勢力と交流するに至ることも、それらのイデオロギーを表明することもないマス・メディアの文化的な諸影響やマス・カルチュアの地下水流が循環しているのである。これらは、市政治体が全く知らないか、ごく下手なやり方でしか行使できないさまざまな空想的イメージとか不安とかを、流布させることができる(148頁)。
 これらの新しい発展は、私的な生活へと個人が後退していくこととか、労働の細分化とかを助長する。そしてさまざまな知識についても、全体について知らせる情報のレベルでよりも、特殊化された知識のレベルの上で増大していく。けれども、そのいずれも、人々がそのなかに住み生活しているこの社会について、構造化された具体的な形で、全体的に理解できるようにしてくれはない(148頁)。

 というわけで、「地方文化はマス・カルチュアによって埋め合わされているのである。このことは、ヒューマニズム文化とマス・カルチュアとがともに、新しい世界を理解することが全くできず、生活の規範となりえないことから生じている」(149頁)。


オルレアンのうわさ―女性誘拐のうわさとその神話作用

オルレアンのうわさ―女性誘拐のうわさとその神話作用