『黒い皮膚・白い仮面』

 精神分析つながりでファノン再訪。黒人は自分自身から疎外されていると。

 故郷に留まるかぎり、黒人は些細な内輪争いの際を除けば自己の対他存在を意識する必要がない。確かにヘーゲルの言うような「他者に対する存在」の契機というものがある。しかし植民地化され文明化された社会においては一切の存在論は不可能になってしまっている。---。植民地化された民族の世界観のうちにはいかなる存在論的説明も許さぬような不純物、欠陥がある。---。黒人は単に黒いだけではなく、白人に対して黒いのであるからだ。---。黒人は白人の目には存在論的実質を持たない。かつて二グロは突如として二つの座標軸を持つことになり、それらを基準として自己を位置づけなければならなくなった(77頁)。

「二グロは白人の主観的態度に準拠しつつ己れのものとした多くの命題の非現実性に気付く。その時彼は真の学習を始めるのだ。ところが現実の抵抗は極めて大きいことが明らかになる」(101頁)。「人種差別のドラマは野外で演ぜられるものであるから、黒人はそれを《無意識化する》暇がない。白人はある程度それに成功する。二グロの優越コンプレックス、劣等コンプレックス、あるいは平等要求の感情は意識的なものだ。彼らは絶えずそれらを外在化する。彼らは自分のドラマを実存させる」(101頁)。「閉鎖的な環境に現れる落伍者は別にして、アンティル人における神経症、異常な行動、感情亢進はすべて文化的状況が産み出したものである」(102頁)。他方、「二グロ恐怖症は本能的、生物的次元に位置する。究極的には、白人の現象的世界に登場する時に、二グロはその身体によって白人の態度の図式の完結を阻げると言えるだろう」(106頁)。

黒い皮膚・白い仮面 (みすずライブラリー)

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