『アウシュヴィッツの残りもの』

 アガンベン、とりあえず3冊読んでみたけれど、これがいちばん読み応えがあったな。まだ、十分消化できていないところもありそうだし、既読書とつきあわせてみる必要もありそうだがとりあえず、気になったところを抜き書き。
 アガンベンによれば、尊厳という語は法律を起源に持ち、それが道徳論の領域に入りこんでくるわけだが、それが意味するのは、「尊厳は、その担い手の存在から独立したもの」だということである。

回教徒は、ベッテルハイムが考えているように、あと戻りのできない限界点の印、人が人間であることをやめる閾の印であるだけでない。すなわち、人間性と自尊心を救うために、ひいてはおそらく生命を救うために、力のかぎり抵抗しなければならない相手としての、道徳的な意味での死の印であるだけでない。レーヴィにとってはむしろ回教徒は、道徳そのもの、人間性そのものが問いに付される実験場である。回教徒は、あるひとつの特定種の限界形象なのであり、そこでは、尊厳や自尊心のようなカテゴリーだけでなく、倫理の境界という観念そのものが意味を失ってしまうのである(81-2頁)。
アウシュヴィッツは、あらゆる尊厳の倫理の終焉と破壊、そして規範への適合の終焉と破壊を告げている。そこにおいて人間がそれに還元されてしまっている剥き出しの生は、なにものも必要とせず、なにものにも適合しない。それはそれ自体が唯一の規範なのであり、絶対的に内在的である(90頁)。

 というわけで、「収容所は、自分本来のものと自分本来のものでもないもの、可能なものと不可能なもののあらゆる区別がまったくなくなる場所である」(99頁)。このとき「損なわれたのは生の尊厳ではなく、死の尊厳である。「このことが意味するのは、アウシュビッツでは、死と単なる落命、死ぬことと「一掃されること」を区別することはもはやできないということである」(100頁)。

 それから、レヴィナスを引きながら確認されていること。「恥ずかしさはモラリストが教えていることとはちがって、わたしたちが自分の存在から距離をとって、自分の存在の不完全性もしくは欠陥について意識することから生まれるのではない。反対に、恥ずかしさは、わたしたちの存在が自己とのきずなを断つことの不可能性、それが自己自身とのつながりを断つことの絶対的な無力にもとづいている。裸でいるときにわたしたちが恥ずかしさを感じるのは、視線から隠したいものを隠すことができないからであり、自己から逃れようとする抑えがたい衝動に、同じくらい強力に逃亡の不可能性が立ちはだかるからである」(140頁)。

「収容所において「他人の代わりに死ぬ」という言葉がもつことのできる唯一の意味は、つぎのことである。すなわち、理由もなく意味もなく、すべての者が他人の代わりに死んだり、生きたりするということ、収容所は、誰も本当に自分自身のこととして死んだり生き残ったりすることができない場所だということである。そしてアウシュヴィッツは、つぎのことも意味している。すなわち、人間は、死に臨んでも、その赤面、その恥ずかしさ以外のいかなる意味も自分の死に見いだすことができないということである」(139頁)。

「恥じることが意味するのは、つぎのことである。すなわち、引き受けることのできないもののもとに引き渡されることである」(141頁)。「嫌悪を感じる人間は、引き受けることのできない他性のうちに自己を認める。すなわち、絶対的な脱主体化のもとで主体化を実現するのである」(143頁)。で、これがフーコーの生権力の話に接合される。「収容所は、死と大量殺戮の場であるだけでなく、なによりも、回教徒を生産する場、生物学的な連続体のうちで切り離される究極の生政治的実体を生産する場である」112-3。
 ところで、トドロフ強制収容所をどんな風に論じていたっけ。

アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人

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極限に面して―強制収容所考 (叢書・ウニベルシタス)

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