『いじめの社会理論』

 というわけで最初の本も再読してみた。こうしてみると、書き方や力点に変化があるとは言え基本線は同じですな。他にも何冊か本を出してるけど、それはどうなんだろう?いずれにせよ、あらためて読んでみて、この本の方がいろいろ考えさせる論点が出ていて読みがいがあると思った。
 さて、私自身は、学校にかぎらず、後期近代にあって日本社会では従来の中間団体的なものが解体しつつあり、機能不全に陥りつつあると見ており、この点で森田本での不登校やいじめの議論にはとても説得力があると感じているのだが、内藤本では「中間団体全体主義」というかたちで、既存の中間団体といじめを直結させて考えている。  
 たとえば、内藤は「現在の学校制度は、これまで何の縁もなかった若い人たちに一日中べたべたと共同生活することを強いる。そこでは、心理的な距離が強制的に縮めさせられ、あまざまな「かかわりあい」が強制的に運命づけられる。このような環境条件のもとで、生徒たちは自分たちなりのローカルな社会秩序をつくりあげる」(40頁)と述べるている。だが、学校で見知らぬ人間と仲よくしなければならない理不尽さというのは、地域のコミュニティが解体ないし弱体化すればするほど、一層強く感じられるものであろう。それに、学校は課題集団であるはずなのに、勉強よりも人間関係が優位になっていると描写されるわけだから、中間団体的なものの解体ないし、機能不全は彼の議論でもこみになっているように思われる。
 いじめの秩序生成メカニズムは、「抑圧移譲を行う者は、かつてのいためつけられる自己を他者に投影し、他者の中でかつての自己を生きつつ、それと同時進行的に、かつてのいためつける他者として現在の自己を行き直す」(193頁)。「他者の中で自己が生きられることの頓挫は、しばしば独特の攻撃性(自己愛憤怒)を生む」(194頁)といった具合に、自己愛性人格障害境界性人格障害をモデルにして作られている。とはいえ、いじめっ子のすべてが人格障害(行為障害)であるとは考えにくいから、集団内部での力動的な退行メカニズムを考える必要があると思われる。まあ、それが「中間団体全体主義」ということなのだろうと思うけれど、心的機制に偏らない説明が欲しいと考える私からすれば、もっと立ち入った議論があってもよいような。
 前に読んだ時も、そして今回読んだ時も一番面白いし、よく分かると思った部分は以下のあたり(しかし、この部分、新書ではあまり強調されていない)。「全能には固有のかたちがなく、全能を具体的に体験するためには別の生活領域からかたちを借用する必要がある。全能を求める営為は、具体的な何かのかたちにかたどられてはじめて、習慣あるいは慣習として人や社会に定着する。利害図式はしばしば全能具現のために借用される」(219頁)。「全能図式と利害図式を機能的に連結させる技能を十分身につけており、利害図式に応じて全能図式の活性状況を伸縮させるタイプの人口の方が、この連結技能が弱く損得抜きに全能図式に従って行動してしまうタイプの人口より、多数を占める」(248-9頁)。
 ただ、これについては逆の方向性も考えられる。つまり、ある種の利害関係のなかに組み込まれると全能図式を作動させやすくなるとか、個人が退行しやすくなるとか、そして、中間団体の作動様式によってはこうした循環が強化されやすくなると思われる。おしまいに、リベラリズムによる解決策だが、原理的にはとても共感できるのだが、他方で、これってハードル高すぎないかな。

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体