デュヴィニョー『俳優』

 西欧演劇史の次はこれ。デュヴィニョーという人は、社会学者ということになってるんだが、著書を見ていくと何者だか分からない感じがする。でも、なんか楽しそうなことをやっている、というわけで、古本屋で見かけるたびに彼の本を買い集めてきたのだが、その出番が初めて来た。この本、面白い。そして、内容的にはやっぱりこれは社会学の本だ。演劇史の本をいくつかあさってきたわけだけど、ボクが読みたいと思っていたのは、このような本だったのだ。
 
 デュヴィニョーによれば、君主制社会が登場するまで俳優なるものは存在しない。ヨーロッパで言えば、中世には俳優は存在しなかったし、演劇も存在しなかった。

ヨーロッパ社会についていうと、後ほど示すように中世末、伝統的社会が君主制社会に席を譲ったときに初めて俳優の出現を体験した。そして語の演劇的意味での俳優の出現は、社会構造のダイナミズムと変化の意識が神話の性質を変え、伝統的な生活様式内の感受性の義務的でコード化された形式に還元されない体験に集団にを参加させることが出来た時代と相関しているように思われる。このことは明らかに、俳優が現実の社会的役割を過信したり、演じたりしている人たちと、しばしば有利に競いつつ生き生きしたものにしていた想像上の振る舞いを、それらに詩的言語を貸し与えて差し出す演劇の一般的な出現と関連している(28頁)。

 たしかに、道化師のやることは演劇とはいえないだろうし、演劇史をふりかえれば、宗教劇等で演じるのはアマチュアだった。「道化役者を演劇に結びつけた唯一の絆は彼が君主との間に打ち立てた関係の型である」64。なぜか?それを、彼は次のように説明している。

この種の社会では集団や個人の体験の基礎をなす公の振る舞いや物腰ははっきりと限定されていた。すなわち忠誠とか、信義とか、勇気とか、騎士道精神とか、約束の遵守とか、領主による臣下の庇護とか、領主への服従は人生の大枠において、永続的な役割を果たす価値だったのである。---。「固定され、しばしば結晶化されて法典化されていたそれらの物腰や振る舞いと並んで、想像上の振る舞い、つまりある具体的な関係や状態に直接呼応しない物腰が実在しえたとはどうしても認められない(65頁)。

 では、君主制下でブルジョアがのしてくるとき何が起こり、それが俳優や演劇とどうつながるのか?

封建的あるいは多少ともすっかり封建的構造に支配された社会では、グループやヒエラルキーのきびしい区別が他人との関係やグループ相互間の関係をほとんど許さない(70頁)。
歴史のなかで相次いだ二つのタイプの社会の変わり目にあって、俳優という社会的人物の出現はいかにも示唆に富む、それが、当時までは一部のエリートに留保されていた価値への参加の目安ともなり、いかにも文化的モデルの模倣あるいは伝播が深い社会的表示行為の形をとりえたかを示しているからである(71頁)。
演劇が、それに伴った感情や振る舞いとは当時まで無縁だった社会階層に及ぼした魅力から、中小ブルジョアジー出身の個人による貴族モデルの模倣は説明可能だろう(74頁)。

 それは結局のところ、俳優ひいては演劇がブルジョアたちにコミュニケーション・マニュアルを提供したのだということになると思われる。これは18cに文学が果たしたとされる役割とよく似ている。たとえば、こうした条件下では、感情表現とは内なるそれの表現というよりは、型通りの言動でそれを示すということになるだろう。

こうして、放浪か定着して法の庇護を受けていたかの区別なく俳優は、事件を叙述する歴史には姿をみせないけれども、人間をその体験の全体において示す価値への普遍的な参加を生み出すのに手を貸す役目であり、アーチストを引きつけ挑発して彼らの世界内に根づき、全般的なコミュニケーションを鼓舞するという役目という特別で重要な役目を果たしたのである104頁)。さらにいっそう重要なのは、劇創造の直接の練り上げにおいて、男女のコメディアンが演じる役のことである。確かにこのキャラクターは自由社会で強調されることになったが、当時キャラクターはたくさんのニュアンスをもたなくて、こうしたニュアンスをコンテキストのなかで示したのである(104頁)。「演技によってわがものとされた身体のさなかで、感情のテーマや詩的言語が社会的参加に統合されたのである(105頁)。

 となれば、セネットが18cにおいて観衆たちは芝居よりも俳優たちの演技を見せに来たのだと説明するのもよりよく理解できるようになる。実際、そうした記述も出てくる。「ところで新しい観衆はもはや単に戯曲を見に行くだけではなくてまた、コメディアンを見に行ったのである。俳優の時代が始まっていたのだ」(161頁)。そして、それがブルジョアが形作られていく過程でおきたことなのわけだ。

ブルジョワ精神が定義されたのは古い価値のシステムを通してであり、ブルジョワ精神が自分自身の存在に気づいたのは絶対王政の初期から固定していた社会的理想を通してだったのである。たかだかブルジョワ精神はその理想に新しい色づけを施したにすぎない。親密さ、《真実さ》、《自然さ》はその種の様相であって、それ以上の何ものでもない(119頁)。

俳優 (叢書・ウニベルシタス (549))

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