「チェンジリング」

 毎回、奇跡のように傑作を送り出し続けているクリント・イーストウッド。今回も期待にたがわずと言ってよいだろう。でも、イーストウッドの作品のよさについて語るのはボクにはとても難しい。技巧的なことがよくわからないせいもあるが、彼の作品はとても自然に撮られている一方で、とっても情緒豊かなのだ。そして、自然にすすんで行くストーリーのなかで、自分がある種の気分にひたされていくのがたまらない。

 とはいえ、この時期に「真実の話」と銘打たれたこんな映画を撮ってしまうこと自体にイーストウッドの気概を感じてもよいだろう。そして、この映画の主題はある意味で「女の真理」だといってよいのかもしれない。たとえば、母親にとってこの子は自分がお腹をいためて産んだ子だという確信は、その子について客観的にどんなことが言えようと、ゆるぎのないものだ。そうした主観的確信が「真理」へと変わる瞬間がある。

 ドライヤーの「裁かるるジャンヌ」(だったと思う)は、たしか「自分が神の声を聞いた」という確信を最後まで貫き通す話だ。最初は「真理」だったその確信は、最後に「客観的」には否定されてしまう。あるいは、ヒッチコックの『バルカン超特急』を思いだしてみてもいい。そこでは、ある若い女性が、車内で知りあったおばあちゃんがいなくなったと訴えても、そんな人はいなかったと誰も取りあってくれず、納得のいかない彼女が協力者を得て「隠された真理」を解きあかしていくストーリーだ。

 もっとも、この映画は、ジャンヌ・ダルクの方に近くて、主人公が隠された「真理」を解きあかしていくというよりは、自分の主観的確信をどこまでもつらぬき通していく。そうした意味で彼女は動かない。誘拐された子どもがやっと見つかったと報せを受けたものの、腐敗した警察は見知らぬ少年をあなたの子だと言い張り、「私の子どもをさがしてください」と訴える彼女をかえって無責任な母親だと非難し、精神病院に放り込む始末。

 そして、そんな彼女の言葉に耳を傾けようとするのは牧師、つまり信仰の世界を生きる人間だ。ところが、そこから息子をとりまく事件の顛末が明らかになり、警察の腐敗が表沙汰になり、息子の生存の可能性が極めて低くなり、牧師たちすらお悔やみの言葉を述べるようになっても、彼女の確信はゆらがない。しかも、彼女は悲劇のヒロインですらない。事件をめぐって起こったことすべてにつきあった末に、彼女は「希望」を見つけたと言うのである。

 われわれの生きる世界で、なかったことにされてしまう出来事がどれほど数多くあることか。しかも、その少なからずは、映画のなかで牧師も言うように、ちょっと考えればおかしいと気づくはずのことなのだ。とはいえ、そのなかでもこの実話はおそろしすぎる。でも、それに耐えていかなければならない生というものもある。とはいえ、耐えられるものなのだろうか?彼女は、くよくよと後ろを振り返える素振りを見せることもなければ、(刑務所での犯人との面会の一瞬をのぞいては)恨みがましいことも決して口にはしない。そんな強さをイーストウッドは描いてみせきった。