いまごろ「全国学力・学習状況調査」の話

  今日の『朝日』の記事を見て気になったので、今ごろになって今年度の全国学力・学習状況調査の結果を見ている。

 http://www.nier.go.jp/08chousakekka/index.htm

 気になったところをいくつかひろってみると、塾等の学校外の教育機会が充実しているであろう都市部の方が学力が高いのかなと思っていたら、そうした意味での地域差(都道府県別ではない)はないらしい。ただ、僻地は若干低め。都市部の方が人口移動が激しいし、多様な階層に厚みがあるということなのかな*1

 他方で、塾に通っているかどうかが学力に有意に影響していると見られる。また、就学援助を受けている児童・生徒の割合の高低も学力と有意に結びついている。もちろん、就学援助を受けている児童・生徒がいる割合の高い学校の方が成績が悪い。一方で、広い意味での生活習慣と学力、および教員間の、ひいては親や地域との連携関係の有無が学力と有意な関係にある。まあ、このあたりは調べなくても予想が着くよなと思うわけで、経年調査をする必要性が分からないという指摘にはまったく同意*2

 また、この調査結果に基づいて各自治体や各学校は努力していくわけだろうし、そうした作業は必要なことだ。でも、そうした流れが問題を学校や教員の責任にばかり目を向けさせるようになってしまうと対策の方向性としては間違っていると思う。でも、この記事や結果公表時に新聞で紹介されていた学校関係者のコメントを見ていると、話はそっちに向かっているように読める。

 これまでも指摘されてきたことだし、この調査からもうかがわれることだが、明らかに階層格差との関わりという問題がある。今日の記事では、沖縄での学力の低さが、生活習慣、その背後にある格差と結びついていることが指摘されていた。また、教員や親、地域との連携ということで言えば、これはコミュニティがどれだけ生きているかと関連してくる度合が大きいだろう*3。そうすると、人口移動が激しい都市部でかつ親の階層が低い子どもの多い学区は、それだけで不利な条件に置かれていることになる。どう考えても、こちらへの配慮の方がずっと重要なことだ。

 で、さっき少し書いた話を蒸し返せば、経年調査をすれば、各都道府県や各学校をあおって競争させる格好になりがちだし、そうすれば、試験でよい結果を出すことを目的にした教育活動が始まる可能性はきわめて高い。いじめ隠しと同じ構造ですね*4。でも、それが見かけ上の学力向上にしかつながらない可能性もきわめて高い(共通一次で懲りたんじゃないの?)。今日の記事でも、そうした懸念を口にする教師のコメントが紹介されていた。

 だが、問題は前述したように子どもの学習環境ないしは生活環境に関わる面が大きいと言わざるをえない。それは以前から言われてきたことだし、二度の調査でも分かる。そして、こうした問題の所在は学力調査以外の手段でも特定できる。そうすると、少なくとも、毎年この手の調査をやる意味がどれほどのものなのかは疑わしい。それとも、学習環境の改善にはコストも時間もかかるから、競争させてなんとかしようってわけ?

*1:名古屋というのはおそろしいところで、今でも小学校の学区というものが生きていて、進学のためにはどの学区というのがあるらしい。ボクなんか、こんな話を聞くと、番町小学校-麹町中学-日比谷高校-東京大学とかいうかつてのエリート・コースなるものしか思い浮かばんのですが。で、有名学区になると私立中学受験率は90パーセント以上で、この時期になると最後の追い込みとやらで学校そっちのけで子どもを塾に行かせて、六年生の教室はがらがら、塾の前は朝から車の列ができるとか。後者はこの目で見ましたよ。

*2:http://www2.odn.ne.jp/~oginaoki/gabu_gakutest080829.html

*3:秋田、福井、富山といったところが高いのはこの点と関連しているのかもしれない。もっとも、数値を見るかぎりでは、大半はその差が問題になるほど大きなものなのか疑問な感じがする。また、大学進学になると地域格差の問題が大きくなることはどう考えればよいのだろう?

*4:数年前に、比較的地方の高校の先生と何回かお話しする機会をもったことがあるのだけれど(だから、どれほど普遍性があるかは不明)、そのとき驚いたのは、教師自身が子どもを教育する目的や動機づけの源泉をうまく見つけられずにいたことだった。で、とりあえず、何人の生徒を大学に進学させられたかが目標になってしまう、と。子どもの「将来の夢」という話はよく耳にするけれど、教師がどんな展望のもとで教育活動に携わり、子どもを進学先や社会に送り出しているのか、あるいは送り出せるのかって話は寡聞にして聞いたことがない。高度経済成長期と違って単純にいかなくなっていることはよく分かるけれど、教師がどんな動機づけの源泉の下で教育活動に携われるかっていうことは、子どもの場合と同様、重要な問題だと思うのだが---