セザンヌ主義

 仕事に復帰する前に横浜美術館セザンヌ主義に行く。まだ松の内だが、セザンヌ展ではなくセザンヌ主義だから、それほど混んではいないだろうという読みもあった。実際、そこそこの入りという感じ。でも、これがなかなか面白かった。
 実のところ、セザンヌの絵はまとまってみたことがなく、たしか、飯田善國の『ピカソ』で、セザンヌのサン・ヴィクトワール山の絵から話がピカソにつながっていってというのがあったから、印象派と次の世代の移行期にある画家みたいなイメージしかなかった。しかし、こうやってセザンヌセザンヌの影響を受けた絵というのを見ていくと、セザンヌがどれほど後生の世代に影響を与えたのやら計り知れないものを感じた。とにかく、セザンヌとその影響を受けたと思われる人たちの絵を見比べるのが面白い。そして、セザンヌの絵そのものも。
 ボクが思うにセザンヌの絵の特徴は、絵の中で描かれている対象が自立した濃密な世界を構成しており、それが独特の存在感をかもしだしているところにあるように思う。たとえば、一連の肖像画は決してこちらにその眼差しが向けられることがなく、どこかをよそを見ている。そして、その姿から絵の人物が、見ているわれわれと分かち合うことのない独自の世界を携えているように見えてくる。唯一の例外は、こちらを振り向くように描かれている自画像なのだが、これも振り向く前にセザンヌがひたっていた世界の名残りが感じられてくる。
 一連の裸体の絵では、個々の裸体を描いているというよりは、そうした裸体と背景にある自然との組み合わせが何か一つの存在者を作っているような気がしてくる。風景画や静物画も、それぞれ描かれる対象が極めて物質的というか、でーんとそれがそこにあるとしか言いようがない。ある風景画では描かれた木がこちらにぐーんと伸びてくるような運動を感じさせるし、例のサン・ヴィクトワールでは山がまさに山として、そこに塊としてあるように感じられてくる。
 そして、たとえば、丘をのうえに点々と並んでいく立方体の家々を描いた絵を見ていけば、たしかに、これがキュビズムに影響を与えたんだろうなと思わずにいられないといった具合に、こうしたセザンヌのモチーフを引きずっていると思われる絵の多いこと多いこと、普段より一部屋余計に使ってありました。
 印象派は、描かれる対象を光の点の集合に還元し、一瞬の像を絵画として取り出して見せたわけだけれど、セザンヌにあっては、むしろ対象は決して像に還元されるようなものではなく、繰り返せば、対象それ自体が自立した質感というかある種の物質性を備えている。
 そして、一番最後にかざられていたのは、セザンヌが大変評価していたという、ドラクロワへのオマージュである『ドラクロワ礼賛』だった。印象派以前、絵画は神話的な題材を取り上げるのがふつうであり、そこに描かれる対象は現実世界から独立した物語を描いていた。セザンヌは、印象派を経過するなかで、現実の対象を描きながらも、描かれる対象をもう一度「現実」から解き放ち、絵それ自体のなかで自立した世界を作りあげてしまったとでも言えばいいのだろうか?そこから、ピカソその他はとても近いところにいる。今度は、セザンヌ展として見てみたいな。それから、セザンヌ論も読んでみたいんだけど、何を読んだらいいんだろう?

ピカソ (岩波現代文庫)

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