ドン・キホーテ

演出 原田一樹 静岡芸術劇場

 さて、『ハムレット』のつぎは『ドン・キホーテ』。ハムレットはひたすら個人の内面に終始してしまうひとであり、それを幼いと言うむきもあるわけだが、それでいくとドン・キホーテはひたすら騎士を外面的に模倣しようとしているわけで、そこに悲喜劇が生じる。しかも、この二つの作品がほぼ同時代に書き上げられていることを考慮すれば、『ドン・キホーテ』は裏『ハムレット』だ。
 この舞台では、まず朗読者がいて、その朗読から話が始まる。舞台には、二つのフレームがあり、朗読する女は外側のフレームの境界で本を朗読し、二つのフレームのあいだでドン・キホーテを中心として人びとの物語が展開していく。その内側にさらにフレームが用意されており、この内側に入りこんでいくのはドンキホーテが風車に突撃していくときだけで、いわば、内側のフレームとはドン・キホーテが生きている(つもりの)「騎士の世界」であり、人びとがドン・キホーテにそれなりにあわせて、その都度のエピソードをやり過ごすのが「内外」二つのフレームの間だ。
 だが、二つのフレームの間で起こるエピソードのなかには、ドン・キホーテが向き合うことのできない、つまりは決してお遊びではすますことができない二つの「リアルな」出来事も生起する。一つは、ドン・キホーテが助けてやったつもりになっている下僕が、その場を離れればむち打たれるに違いないということ。もう一つは、ドン・キホーテが「思い姫」と定めた女が男から金をもらって一晩過ごすことを生業にしていること。ドン・キホーテは、そんなことは露にも思わず、下僕にも売春婦にも騎士道を励行するのだ。そんなドン・キホーテを村に連れ戻すために、村の司祭が貴族のフリをして助けを求めることで何とかしようとするのだが、そこにどたばたが起こり、デウスエクスマキーナみたいな感じで、姪(?)が扮する何だかさんがやってきて、ドン・キホーテは監禁されて故郷に連れ戻される。
 こうして前半では、最終的にドン・キホーテは「狂気」の人として「監禁」されて村に連れ返されるのだが、後半では、ふたたび村を逃げ出したドン・キホーテは、今度はその先の展開も含めて『ドン・キホーテ』という物語がすでに書かれているという背景のもとで、進行していく当の物語に直面していく、という設定になっている。書物と化した『ドン・キホーテ』を読んでいるとある貴族が、余興にとドン・キホーテを招待し、そこでちょっとしたゲーム(賭け事)をするのだが、これは前半で周囲の人たちがドン・キホーテに付き合ってやったそれとは次元を異にするものだ。前半では、きっとどこの共同体にだって一人や二人はいたであろう「変な」人の相手をしてやる延長上で、よくわからない「変な」人であるドン・キホーテの相手をしていたのだとすれば、「監禁」されたのちに始まる後半では、ドン・キホーテがどんな人物かわかったうえで、つまり、一種の「狂人」として余興のおもちゃにされている。
 
 そして、この貴族がドン・キホーテと演ずるゲームがまさに当て書きされていたように、この余興のあとでドン・キホーテは、もう一人の騎士(姪の婿)と決闘するのだが、そこで勝負に敗れたうえで「オマエのすることはすべてこの本に書かれているのだ」と告げられ、自分がフィクションの世界を生きていたことを覚らされる。そして、このとき当のその本が外側のフレームの境界に置かれる。冒頭ではその場所に朗読者が立ち、外側のフレームの内側のことを語っていた。ところが、ここでは本そのものがドン・キホーテにも見えるように置かれている。つまり、外側のフレームの境界線を見ようと思えばドン・キホーテにも見えるようになっているのだ。そして、これは、ドン・キホーテ(だけ)が生きているつもりだった内側のフレーム(「騎士の世界」)がフィクションとして外側のフレームに重ね合わせられるようになるということでもあるだろう。つまり、ドン・キホーテにつきあう人たちは、ドン・キホーテにあわせて演じていたのだと覚らされる。実際にも、この芝居では一人の役者がいくつもの役を演じていた。
 さて、フィクションを生きていたことを自覚できるようになったドン・キホーテに回帰してくるのはフィクションではすまない「リアルなもの」だ。すなわち、痛い目にあわされた下僕と、売春婦。そして、自分が生きるよすが(対象=騎士道)を失ったドン・キホーテに訪れるのはメランコリーであり、村に戻って床にふせるドン・キホーテのもとに、婚礼から戻ってきた姪夫婦が訪れる。その合間に、外側のフレームの境界線上に置かれていた書物は司祭の手によって取り払われ、死にかけているドン・キホーテに向かって姪が「おじさんは実際に騎士を生きたのよ」と告げる。すると、そのとき、内側のフレームの内側にもう一つ別のフレームが出てきて、そのフレームのなかでドン・キホーテが風車に向かって突進しようとしている姿(人形です)が現れてくる。
 こうして外側のフレームの境界線上にあった書物(=フィクションの境界)を取り去ることで、舞台と客席の境界が取り払われ、いわば舞台上の演者たちと観客が同じ立場から事態を眺めている格好になる。そして、新たに出てきた最奥のフレームが新たな「内側」のフレームとなって、観客も登場人物も同様にドン・キホーテの逸話をフィクションとして眺める状況が到来して終わるわけだ。
 前半では、騎士として生きようとするドン・キホーテは、他人様の目から見れば、常軌を逸した変人であったわけだし、だからこそドン・キホーテのためだけの内側のフレームが用意されており、人びとは二つのフレームの間でそうしたドン・キホーテにそれ相応につきあってやるわけだが、挙げ句、ドン・キホーテは妄想を生きる狂人として「監禁」されてしまう。そのうえで、後半末尾で、ドン・キホーテのふるまいが決して「狂気」ゆえのものではなく、自らがなした振る舞いであったと言われるとき、つまり、事後的であるとは言え、それが自らの自覚的な振る舞いであったとされるとき、その行状は「演技」あるいは「お遊び」として、日常生活とは独立した別の枠組みのなかで起こる出来事と化すであろう。つまり、ここに日常生活の世界と、狂気の世界、ひいてはフィクションの世界が分立してくる。
 アルフレート・シュッツは、多元的現実論を適用しながら、ドン・キホーテを分析してみせた。しかし、ボクにはどうしても逆に思える。ドン・キホーテの生きる世界(あるいはセルバンテスの生きた時代)のなかで多元的現実論が適用可能な枠組みが出来上がってくるのだ(もちろん、こんなことを言うにあたってはM・フーコーを念頭に置いている。そして、おそらくはこの演出も)。そして、そうした舞台になっていたように思う。