メメント・モリあるいは「氷の世界」:『ゴス展』

 横浜美術館の『ゴス展』へ行ってみた。最近の横浜美術館の企画は、市長が代わったせいなのか、ウケねらいに走った企画が多すぎるような気がしていて、これもそんな気分のまま見に行った。ゴスってなんだかよく分からないし、まあよい機会かと。ところが、これが意外と面白かった。ちなみに、見ていたら、途中でなんとアラーキーがやってきて「面白いな」を連発して立ち去っていきました。
 作家ごとにコーナーが作られており、それを見て回るようになっているのだが、なかでも二人目の作家の作品なんかスゴくて、髑髏やヤクザ映画に出てきそうな体中刺青だらけの人間の絵や人形とか、蛾を人間の顔に見立てたような人形作品とか目白押し。要するに、不気味なもの気持ち悪いもののオンパレードなのだ。でも、不思議なことに作品を見ているとなんだか心地よさを感じてしまう。最近仕事がらみで不愉快なことがあり、気分転換にと名古屋を離れたもののなんだかあまり気分の晴れないまま戻ることになり、その前の最後にと出かけてみたのだが、結局、これで一番スッキリした。でも、なぜなんだろう?
 こうした気持ち悪さって、異物が自分の身体の内側に入りこんでくるような気色の悪さ、しまいにはそれでもって自分が自分自身ではなくなるような、死に至るイメージに連なっているように思える。言ってみれば、こうした作品って自分の身体に対する攻撃性をかたちにしているのだ。
 ところで、われわれは自分がどうしようもない不条理な苦痛に置かれたとき、苦痛を向けてきた源泉にではなく、自分自身に攻撃性を向けることがある。顕著なのは少なからずの「自殺」だ。昨年、アメリカで起こった大学での銃撃事件だって最終的には自殺してるわけだし、また、自殺を抜きにしたって、銃撃事件だけで社会的には自殺行為に等しいことは分別があれば分かるわけだから、いずれにせよ、あれは自己破壊的な行為だといっていい*1。あるいは、以前フレデリック・ワイズマンの『多重障害』を見ていたら、「自損行動」への衝動(といっていいのかな)を抱えている少女が出てきてそれが痛々しかった。
 どうやら、われわれには、自らの内に生じた苦痛が自らのコントロールを超えてしまったときに、攻撃の矛先を自分自身に向けることで、生命体としての平衡を保とうとするメカニズムが備わっているのかもしれない。先日、見た芝居『雪のねむり』にもそんな話が出てきた。そして、たとえば、フロイトはそれをタナトスと呼んだわけだ。
 もっとも、われわれは自分の内部に生じるこうした攻撃性の源泉を明瞭に意識できるわけではない。というか、なんで余所から受けた不条理な仕打ちへの反撃を自分自身に向けなければならないのだろう。それ自体が不条理だ。ところが、こうした作品はなぜか不思議な解放感をもたらす。どうしてか?ボクとしては、こうした作品は自らに向けられる攻撃性の源泉を外部(より正確には自己の内外の境界に位置する身体上)で目に見えるように仮構しており、それが手の届かないところにある自傷的な攻撃性の〈源泉〉と置きかえられてしまうからだ、と考えてみたくなる*2。しかも、この作品では刺青を入れられているのが、キューピーのような人形であったり、永井豪のマンガみたいな劇画タッチの絵だったりして、われわれが自らと重ね合わせてしまう身体像はきわめて軽い感じのものへと置きかえられている。
 そんな気分でさらに展示されたゴスロリの写真を見ていると、まあカワイイ系に流れたところがなんだかなと思いはするのだが、なぜゴスロリなのかが分かったような気がしてきた。ゴスロリというのは、言ってみれば、軽度の自傷系なのだ。あるいは居場所作りの技法だと言ってもいい。つまり、自らが抱え込んでいる世界との折れ合えなさみたいな苦痛の〈源泉〉を、死のイメージと結びついたゴスロリのファッションで置きかえようとしているわけだ。まあ、単純にファッションと思っている人もいるでしょうが、雨宮処凛みたいな経歴の持ち主がゴスロリ好きというのはなんだか偶然ではなさそうだ。
 最後のコーナーに並んだピュ〜ぴるの写真なんて、まさにそんな感じで、いろんな姿格好をしたセルフ・ポートレートが並んでいるのだが、それは、自分のセルフ・イメージをしばしば自虐的に操作することで世界と折れ合おうとしているかのように見えた。
 でも、気になるところがないわけではない。こうした表現って極めて等身大に近いもので、世界と自分の折り合えなさは、自分の心と体の不均衡に置きかえられ、作品理解もわりと素朴な感情移入に依拠しているように思える。そうすると、おじさん的には違和感もあるわけですな。もっと、強度のある作品が見たいと。
 しかし、表現というものがそのような経路をたどらなければなかなか成り立たない現実があるのだとも言える。そういえば、しばらく前にみた『マグナム』のドキュメンタリー映画では、メンバーの写真家が、いまの時代にあった極めてパーソナルなドキュメント写真が望まれるみたいなことを述べていたような気がするのだが、あの話もこのことに重なるかもしれない。いずれにせよ、寄り道するだけの価値は十分にあった。

*1:まあ、アメリカじゃスクール・シューティングはふつうにあるそうですよという話もあるようですが

*2:心理学でいう帰属理論に類するメカニズムを想定している