鶴見和子・市井三郎編『思想の冒険』

色川大吉「近代日本の共同体」

 ここでは、村落共同体を日本的ファシズムの温床とみるような見解にたいする異議が展開される。まず、そのポイントは、「擬制地域共同体である村落自治体」と「部落」(伝統的な小地域共同体)の区別して、(当時)解体しつつある部落の意義を再評価しようというもの。ファシズムの温床になったのは、むしろ、村落自治体の方だというのだ*1。で、「小地域共同体には内にたいしては固有の平準化原理があり、外敵にたいしては自衛の原理がある」(255頁)というあたりが眼目か。二つの関係は、たとえば、「部落共同体にはそれ固有の生活の原理と、自己完結的なモラルが多年にわたって形成されていて、非常のさいには「村八分」として発動され、また平常時にはムラの共同行事にあらわれたり、子供組や若者組をしつける社会規律として生きつづけていた」。「しかし、それが弛緩し、荒村の危機に瀕したときに、儒教道徳に源流をもつ「通俗道徳」が村の名望家=豪農らの生活実践をへて、共同体の中へ持ち込まれた」(257頁)といった具合になる。
 

桜井徳太郎「結衆の原点」

 こちらは色川論文が指摘している部落の機能をより具体的に読み解いたものといってよく、「家」の弱さを補強するために擬制的な親子関係が導入されるが、他方で、それが共同体の同世代的な横のつながりを強化しているという話。「社会性の濃い擬制的オヤコ関係は、タテ社会体制の弱点を補強する大切な絆となっていることが分かる」(204頁)。「親子成りの仮親制では、オヤとコのタテの原理がはたらくけれども、コ同士、コ相互の関係では、ヨコ原理がドミナントである」(209頁)。それから、外界への関心の話も出てくる。川島論文にもあったけど、農村では労働にあたって共同作業が必要になるから、単純にタテの原理が強化されるわけにはいかないということをよく示しているといってよい。

 ただし、まあ論文にもよるし、部落を前近代的と批判することに対する反動もありましょうが、しばしば部落や地域の機能の再評価を、よいか悪いかという価値的な二分法に重ねてしまいがちなところがちょっとあれですね*2。地域なんてどう評価するにせよ、それと付き合っていかなければならないわけで、一方的に評価してもしょうもないような。それから、「弱い紐帯」の話を思い出しながら、部落や地域の機能を一枚岩的に考えているように見受けられるところが気になった。

思想の冒険―社会と変化の新しいパラダイム (1974年)

思想の冒険―社会と変化の新しいパラダイム (1974年)

*1:これに関連して思い浮かぶのは、沖縄戦での「集団自決」にあたっては、軍の意向を受けて主体的に村民の自決を進めた村の幹部層がいたという指摘である。

*2:そういえば、そんな感じで町内会を再評価する論文がこれに載ってたはず。

社会学の理論でとく現代のしくみ

社会学の理論でとく現代のしくみ